卵と鶏と発想の飛躍と
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ブログはやはり思い立ったときに更新しないとダメだ。
書こうと思って、溜込んで後になって書こうとすると、
本当に書きたかったことを忘れて後で後悔する。
1つ前の記事「何を出発点にして、それをどう評価していくのか」は、
「IT系ニュース媒体の写真にかけられたモザイク」と「器械体操の評価方法」を出発点に、それまでなかった新しい技術を、何を土台にして、どのベクトルで評価すべきかについて書いた。
でも、実はこの議論だけでは足りず、もう1つの視点を書き加えようと思っていたことを、後になって思い出した。
前の記事に対してmixi経由で、それでもやはり「もし何かあった場合に、被害に遭って嫌な気持ちになったりする人の側に立って考えると、モザイクは仕方がない」というコメントを頂いた。
まったく持ってその通りで、この議論は、卵が先か鶏が先かの堂々巡りな部分がある。
実は先週末、寝付けない夜に、この卵と鶏の議論を頭の中で繰り返していた。
その後、私が以前、ちょっとやりたいと考えているあるプロジェクトのことを思い出し、
それがきっかけで、性善説を核にした方がいい、という結論にたどり着いたのだ。
持論を押し付けるつもりはないが、ものの考え方の一つとして、みなさんの意見を伺えればうれしい。
卵と鶏の議論は、メビウスの輪のような物で、この輪にばかり目を向けていたのでは、
いつまで立っても解決の糸口は見つからない。
そこで、もしすべてがうまくいって健全な社会が成り立ったらと仮定してみたのだ。
そういう社会が成り立ったとしたら、おそらくそこでは、
人々は他の人が困っていれば手を貸すが、必要以上には干渉しない。
そしてプライバシーへの過剰反応はなくなるだろう。
革新的技術の悪いところは、開発者に正々堂々と正面から指摘するが、
それはそれを、もっとよくしてもらおうという建設的な提案であって、
相手をおとしめるのが目的ではないし、ちゃんといいところも評価するだろう。
果たしてそういった理想は成り立つものか?
完全に成り立つかというと自信はないが、
少なくとも今から十数年くらい前までは、もう少し世の中のバランスが健全よりだった気がする。
ということは、もう少し舵をそっちよりに振ってもいいのではないか。
そうやって考えたら、やはりアクションの源流の方から、
少しずつ健全路線に戻していってもいいんじゃないかと思えてきたのだ。
(記事を早く書き上げるために私基準の「健全」というやや抽象的な表現をしていることをお詫びしたい)。
さて、ここで私をこの思いに至らせた、
ちょっとやりたいと思っているプロジェクトについても、少しだけ触れておこう。