WWDC 26で発表されるアップルAI戦略が、なぜ人類にとって重要なのか
誠実なものづくりが、なりをひそめるIT業界
(この記事はWWDC 26の開幕直前に書いている)
Calm Technologyを提唱するアンバー・ケースは、かつてこんな主旨のことを語っていた。建築家や医者、弁護士になるには、その業界の歴史や、人々や環境にどう影響しうるかを、かなりの時間をかけて事前に学んで、はじめてものを作る資格が与えられる。これに対してITの世界では、参考書やネットの情報を見ながらプログラミングを習得すれば、明日からでもいきなり何万人にも影響を与えるものが作れてしまう———と。
この安易な流れこそが、今のテクノロジー社会に大きな問題を引き起こしていると思う。
IT黎明期、たとえば初代Macの開発時には、テクノロジストだけでなく、文化人類学者や心理学者など、あらゆる分野の人々が議論を戦わせていた。マウスのボタンの数から、アイコンのデザイン、ちょっとした操作の手順、カーソルの矢印は右向きか左向きか———どのようなデザインにした方がわかりやすいか、より多様な人々に使ってもらいやすいか。そうした真剣な議論が重ねられ、文献も数多く残されている(ただ、テクノロジー業界は進歩が早いと、そうした歴史から学ぼうとする人は稀で、極めて多くのテクノロジストが、それまで何百人の先人が起こしてきた過ちを繰り返していることが多い)。
インターネット黎明期にも、人とインターネットの関係性について真剣に議論を交わす人々は大勢いた。
しかし、ドットコムバブルがやってきて、アプリ経済圏が広がった頃には、そうした人々はどこかへと消えてしまった(もしかしたら、相変わらずいるのかも知れないが、全体の比率で見るとあまりにも小さくなってしまい見えなくなってしまったのだろう)。
それ以降の時代、デザインの話と言えば「Aパターンと Bパターン、どちらがより売れるか」とか、どうやってユーザーを囲い込むか、人々の行動情報を盗み見てどうマネタイズするか———そんな議論が中心になり、誠実なものづくりの姿勢はなりをひそめてしまった。
ネット広告がもたらしたダークエイジ
私が2001年にインタビューした時点で、グーグル共同創業者のラリー・ペイジは「広告ビジネスだけを唯一の収益モデルにするかはまだわからないが、そうならないようにしたい」と答えていた。ところが同社が2003年に発表した広告技術 AdSense が大成功し、翌2004年にIPOを果たした後は、広告以外のビジネスモデルを考えるIT企業はほとんど消え去ってしまった。
そして広告をビジネスにし始めると、先ほどのAパターン対Bパターンや、行動監視に基づいたクリックレート向上が、会社の先行きを左右するようになる。ここからIT業界はダークエイジに入ったと、私は思っている。
まったく悪びれずに「気づかないふり」を通し、個人情報の悪用や問題のある広告掲載で儲け続けるMeta社(Facebook)のような、あまりにも悪目立ちする会社が出てきた。それだけに、老舗企業にはもう少し真摯に社会的責任を負うことが期待されている。
そういう点ではIBMやマイクロソフトは広告ビジネスに依存していない分、かなりクリーンな会社だと思う。ただし、そもそも法人向け事業が中心で(Windowsマシンのほとんども、会社から与えられたものだろう)、個人に向けた使いやすさの設計や配慮といった部分は、文化として持っていない。
そんな中、唯一希望を与えているのが、広告ビジネスに依存せず、ハードウェアの売上で利益をあげるアップル社だ。同社はこの独自性を「プライバシー保護の守護神」という形でリフレーミングし、監視が当たり前になったIT業界の中で、堂々と胸を張って良いことをし、それで利益を上げられるという独自のポジションを築いた。
広告が主な収益源であることに変わりはないが、Googleも最近では独自のハードウェア製品を作るなどして、少しずつそこから脱皮しようとは努力をしている。一般ユーザーに親しまれようと努力している点もあるし、決して悪意のある会社ではないと思う。
ただ、Googleの問題は、なんとかAIとミッションステートメントで繋ぎ止められてこそいるものの会社が根本的にカオスであることだ。社内競合も含め、あまりにも多くのプロジェクトが並行して、かなり自由に進められている。しかもその多くが、極めて個人に依存したプロジェクトになっている。だから、担当者が退社したり、飽きたり、会社が緊縮財政に入った途端に、そのサービスを愛用していたユーザーへの十分なケアもないまま、あっさりとサービスを打ち切る。そんな無責任な部分も少なくない。
そう考えると、人々とコンピューティングの未来の形を、丁寧に検討し、磨き上げ、形にし、その後も育て続けていく。そんな長い時間軸でのテクノロジー社会の構築をしている会社は、今ではアップルしかない、というのが、この業界を36年間取材してきた私の所感だ。アップルも本当にはずしたアプリやサービスを作った時はあっさりやめてしまうこともあるが、他の会社と比べると、そういうことが圧倒的に少ない。
シリコンバレーの強さの本性は「無責任さ」
それだけに業界全体がAIに舵を切り始めるこのタイミングでのアップルの選択は、極めて重要だと思っている。
36年間取材をしてきて分かったことがある。シリコンバレーの強さの本性は「無責任さ」だ、ということだ。よくベイエリアの人間は「自分たちは楽観主義者だ」と自慢げに言うが、それは大概、弊害があってもそれを無視してテクノロジーのアクセルを踏み続け、他社が追いつけないレベルに技術を磨けば、それでお金がたくさん集まり、後でその弊害にもパッチワークを当てて隠せる、という考えが主流のイメージがある。
だから、とにかくテクノロジーのアクセルをベタ踏みして全速力で前に進む。99回失敗しても、最後の1回で成功すれば、それまでの負け分を全部取り返せる———そんな無駄の多いギャンブルで、雑な仕事を続けるのがシリコンバレー流だと、強く思うようになった。
アップルのように、アクセルだけでなくブレーキもうまく使いこなせる会社は極めて少ない。最近になって、ようやくAnthropicという、ブレーキを踏むことを恐れない会社がもう1社だけ登場し、すごく安心している。ちょっと前まではTwitter社にもそういうところがあった。
後発になることを恐れず、むしろ質の低さを恐れるのがアップルだったが…
テクノロジストは、一番乗りであることこそが重要だとばかりに、とにかくアクセルを踏みまくるのが好きだ。問題が起きても後で対処すればいい、という考えの人が多い。
そうやって、いち早くOSやアプリへのAI統合を図った会社もある。だが、果たしてどれほど浸透しているのだろう、と疑問に思う。最新の技術ということで面白そうだと使ってみたものの、まったく使い物にならず、すっかり印象を悪くしてしまう。その後バージョンアップで良くなっても、昔の印象のままでユーザーが戻ってこない———そんな技術も多いのではないか。
その点、アップルは後発になることを恐れない。むしろ、スピードを優先して質の低い製品を出すことの方を恐れる会社だ。
AI戦略も、技術好きの人たちには「遅い」「遅れている」と散々言われてきた。だが結局のところ、ひとつのAIモデルに依存せず、ユーザーが最も得をするアーキテクチャーの下地作りを丁寧に重ねてきており、これから一番期待が持てるのではないかと思っている。
ただ、そんなアップルにも、テクノロジーエンスージアストの波は押し寄せている。
アップルのAI機能は、そのアーキテクチャーのデザインは良いと思う。だが、その上で機能を開発している一部の技術気質の人々は、数億人規模が使うAIが利用者に与える文化的な影響———文化を上塗りしてしまうリスク———をあまり考えず、ただ「技術的に可能か」とか「自分が面白いか」といった単純な指標で作っているのではないかと最近、少し不安になっている。
その最たる事例が、アップル標準のAIベースの描画機能「Image Playground」だ。皆さんは、その存在を知っているだろうか。試したことはあるだろうか。あるいは、そもそも起動したことがあるだろうか。起動したことがある人の中で、再び起動した人はいったいいるのだろうか。このアプリは明らかに「質が伴うまで出荷しない」というアップルのポリシーの明確な反例になっている。
どんな文化圏の人がプロンプトを書いても、画一的なアメリカテイストの絵が仕上がってくる。この魅力の小さい技術を宣伝するために、アップルは強引に同社の看板アプリに組み込んだりと色々しているが、私にはそれが、むしろ看板アプリの価値を落とすことになっていないか不安に思っている。いや、それでいうと新しいKeynoteなどに用意されたスライドの内容を見て発表者ノートの文章を生成するという機能も、およそ質が低くて使える機能ではなく、技術ファーストの創業1〜2年のシリコンバレースタートアップが「ただ、やってみたらうまく動いているようだから」とそのまま実装してしまったレベルの品質で、仕事に使える品質にはなっていない。
アップルのような質重視の企業は、絶対に搭載してはいけないレベルの品質の機能だった。
私がアップルに望んでいるのは、そうしたAI機能ではない。
個人を自由にし、その人の個性をエンパワーするようなAIだ。
パーソナルコンピューターの誕生
ここで少し、古い話をしたい。そもそもパソコンというものが、どういう経緯で誕生してきたかをご存知だろうか。
1970年代は、まだメインフレームと呼ばれる、冷蔵庫くらいの大きさのコンピューターが主流の時代だった。動かすだけでも高価なこれらのコンピューターを、1人で占有することはできず、みんなターミナルと呼ばれる端末でアクセスして、複数人で共有して使っていた(これをタイムシェアリングと呼んでいた)。
当時は冷戦時代。企業や政府がこうしたメインフレームを導入しては、国民や顧客の動向を監視し、管理下に置こうとしているという、漠然とした不安があった(Macデビュー時のCM「1984」も、そんな時代の不安を表している)。
そんな中、管理下に置かれず、自給自足で自由に生きるヒッピーの生き方が若者に支持され、巨大企業などに個人レベルで対抗しようとする姿勢に憧れを抱く若者も増えてきた。
1970年代に入ると、マイクロプロセッサという、個人でも買えるレベルの小さくて高性能な「コンピューターの頭脳」が誕生するが、これが大きな革命の火種となり、コンピューターの世界に新たな地平が開かれた。
個人でも、政府や大企業に負けず、自分だけのプログラムを動かして自分をエンパワーできるコンピューター。つまりパーソナルコンピューター、個人のためのコンピューターの誕生につながったのだ。
アップル IIの前にも、エンジニアが、「ただできるから」と作った他社製パソコン製品もあったが、そうした製品はすぐに消え去った。歴史に名を残したのはキッチン家電のようなプラスチックケースに収められ、ちゃんとユーザーが使うシーンにまで想像をめぐらせて作った品質を伴った製品、アップルIIで、こちらは大ヒットとなり、巨大な世界的ムーブメントを生み出した。