何を出発点にして、それをどう評価していくのか
またしてもイノベーションを生み出すための議論だ。
ここ数日、ずっと考えていたことだが、これから忙しくなって、
またブログの更新が滞るかもしれないので、そうなる前に書き残し、
人々の議論の種にしてもらおうと思う。
今の世の中では、せっかく素晴らしい製品・サービスを開発しても、
すぐにそれを悪用する人が出てきて困ることがある。
それだけに、新しい製品・サービスに対する評価も、保守的で厳しくなることが多い。
「それはこんな犯罪に使われるんじゃないか」であるとか、
「そんなものを出して、もし、犯罪に使う人が出てきたら誰が責任を取る」といった類いの議論だ。
確かに、せっかくの便利な技術も、悪意を持った人や犯罪者を利することになっては困る。
しかし、だからといって悪意を持った人や犯罪者を基準にものごとを考えていては、
いつまでも立っても、その悪意中心のパラダイムから抜けられないんじゃないかと、ちょっと心配だ。
知らない人は(もしかしたら知っている人も)全員、悪事をたくらんでいるという性悪説に基づいてものごとを判断していたら、いつまでも悪意が溢れていることが前提になってしまう。
でも、我々が本当に求めているのは悪意のない、健全な社会のはずだ。
話しがちょっと抽象的過ぎるので具体例をあげよう。
最近、Webのニュース媒体の街頭取材の記事では、
記事中の写真に写っている人の顔にモザイクがかけてある。
私はあれが何か不気味かつ病的に感じられて生理的に受け付けない。
こちらのascii24でApple Store Sapporoのオープンの取材記事を見て欲しい:
開店までの人々のドラマを追体験! Apple Store Sapporoがオープン
取材中は、オープニングイベントに来ていた子供たちの明るい笑顔を撮り、得意げだったのだが、いざ記事になってみると、その子供たちの笑顔の上にモザイクがかかっていてショックを受けた。
{ここから追記}
ここで明記しておくが、これはascii24(現ascii.jp)だけがそうしているわけでない。
インプレスWATCHやITmediaの一部など、他の媒体も皆、同じ処理を施している。
(といっても、そういう処理を施しているのはIT系の媒体が多い!?)
プライバシー保護のため仕方がない処理だと言うことで、本来は顔が映らないように後ろから撮るであるとか、遠目に撮るのが理想だと言われたことは、媒体と編集者のために付け加えておこう。
{追記ここまで}
当時、この辺りの状況に詳しい他出版社の編集者と、話しをつきつめていったところ、
要するに一般の人の顔写真を特定可能なURLに載せておくと、
掲示板などに、その人についての評論や、あることないこと書き連ねて、そのページにリンクをしてくる輩がいるから、一般人の顔写真は載せない方がいいというのだ。
その時は「なるほど」とも思ったが、やはり何かすっきりしないものがある。
だって、それってどう考えても、悪いのは、掲示板にそういう書き込みをする輩の方であって、
そういう人達のために、世の中のシステムをあわせていってしまうと、
どんどん、そういう行為が当たり前になっていってしまう気がしてならない。
そもそも、そんなモザイクのかかった、不気味な写真ばかりみて育つ子供たちのことを考えてもかわいそうになるし、そうした中から、そういう不健全な方向に物事を考える輩が育ってしまうんじゃないかと思うと不安でしょうがない。
それよりは、モザイクを外して、一般の人々の素敵な笑顔の写真を一枚でも多く掲載した方が、
健全な社会を育む上でも、今の社会を理想の社会に近づけて行く上でもいいんじゃないかと思えてくる。
もちろん、世の中には、残念ながら、常に悪意を持った人達がいるわけで、
そうした人々に対しての何かしらの対策を考える必要はあるだろう。
だが、私はものごとの考えのベースとなる部分、核となる部分、出発点となる部分は、optimisitcな性善説にしておかないとイケナイんじゃないかと思えてしょうがない。
さて、ここまでは基盤の話しだが、それではその基盤の上にどのようにして、考えを積み上げて行けばいいのだろう。
実はオリンピックの体操のゲームをみていて、これについても思うところがあった。
私は体操のことはよく知らないのだが、予選を観ていたときに、競技者の1人が演技でちょっとだけ失敗をした。
その時、解説者が、「この予選ではもっとも成績の良かった○人のスコアを計算する」と言っていた(もし、間違っていたらスミマセン。コメントでフォローをお願いします)。」
それを聞いて「もし、成績の悪かった方からカウントしたら嫌だよな」と頭の中でつぶやいていたのだが、次の瞬間、これって世の中のイノベーションにも当てはまるんじゃないかと思えてきた。
シリコンバレーがイノベーティブなのは、常に新しい物事に挑戦している人が溢れているからだ。
そうやって挑戦をしている人達の大半は失敗をしている。でも、成功した上位数名の人は、メディアにも大々的に取り上げられ、場合によっては大きな富を得ることになる。
だからこそ、人々は新しいことに挑戦し続け、技術を新しいレベルにあげていこうとするのだ。
おそらく、体操の世界も、先の上位者を評価する、というしくみがあるからこそ、競技者が新しい技を生み出し、それに挑戦するんじゃないだろうか。
もし、ここで成績の悪い方から評価するような、システムだったら、皆、失敗を、そして責任を問われることを恐れて、挑戦を止めてしまい。誰もが無難な技ばかりをするようになり、体操という競技そのものも廃れていってしまうんじゃないか。
最近の日本では、何か新しい製品やサービスが出てくると、いい面よりも先に、悪い面ばかりを取り上げる風潮が最近、強くなっている気がする。中には「あら探し」的にそういうところを見つけては批判している記事も見かける。
もちろん、ものごとには批判があってこそ、良くなれる部分もある。
しかし、何をやっても、揚げ足取り的な評価ばかりでは、いいものは生まれてこない。
新しい製品・サービスが登場したら、悪いところに目を向けるのと同じくらいのエネルギーで、その製品・サービスのいい面にも目を向けることが必要だと思った。
まずは人に、それを要求する前に、自分でそれを実践していければと思う。
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最後にもう1度だけ、ascii24と担当編集者の擁護のために追記しておくと、彼が望んでいたのは、人々の後ろ姿と遠巻きに撮った写真で、もし私が撮影した写真がそういう写真ばかりなら(あるいは混雑した店内で撮影する相手、1人1人全員に声をかけて許可をもらっていれば、モザイクをかける必要はなかった。私はアスキーのモザイク記事は、悪意を持った人を基準に発想した一例としてあげたまでなので、その点を理解してもらえればと思う)。