無視できない、「場」の持つ力
「日本の優秀な企業が海外で成功するのをお手伝いしたい」などと自己紹介している私が、これを言ってしまうと、自分が2枚舌なんじゃないかと思えて自己嫌悪に陥るが、実は私も坂本龍一さんのコンサートはUstreamのみでやるのが正解だったと感じている。
それは、Ustreamという場が、もはやミュージシャンやクリエイター達が集まる場として定着しつつあるからだ。
ニコニコ動画もよく作られたサービスだとは思っている。ある委員会で、ニワンゴの杉本誠司代表取締役社長と同席させてもらったこともあるが、男前なだけでなく、頭の回転も速ければ洞察が深く、こんな優秀な人がいるんだと感心させられた。
それでも、ニコニコ動画の周りに形成されたカルチャーは、ミュージシャンを含む、一部のクリエイターのコミュニティーとは水があわない気がしてならない。
[更新メモ:コメント欄やTwitter、はてなブックマークで、ニコニコ動画を愛用するクリエイターに悪印象を与える、という指摘を受けて「一部の」を追記しました]
これはサービスがいいとか悪いとか、機能が多いとか少ないとかの問題ではない。
「場」の問題だ。
例えば、この記事の1枚目の赤い部屋の写真はシドニーのWホテルのロビー(現在は「Blue Sydney」に変わったそうですが、ロビーは健在だそうです/コメント欄参照)だが、いくら海の近くだからといって、この部屋にアロハシャツの客は似合わない。おそらく、アロハを着てこの部屋にやってくる人もいるだろうが、しばらくすると、場違いであることに気がついて、どこか別の場所に移動してしまうだろう。
ヨレヨレのスーツと年期の入ったカバンを持ち、昨日の疲れを少し顔に出したサラリーマン男性が、ランチでたまたま新しい店に入ってみたら、中がとてもおしゃれで客はOLばかり。これも場違いで居心地が悪い。私のようにずうずうしければ、味や雰囲気さえ良ければ、懲りずにまた何度でも行ってしまうだろうが、遠慮がちなオジサマなら、その後は敬遠してしまうだろう。
ダンディーを決めている大人な雰囲気の男性が、自分が主催したパーティーに紹介でやってきた人と意気投合、「今度は私のパーティーへ是非」と言われて言ってみたら、自分が苦手なアニメ/マンガ好きの人達の集まりだった。これも場違いで居心地が悪い。
あるいはマンガや日本のドラマは好きで外国には縁も興味もない人が、たまたま呼ばれたパーティーに足を踏み入れたら外国人だらけ。見かける日本人っぽい人も英語と日本語のチャンポンで話している。これもまた居心地が悪いだろう。
人間の趣味趣向は一様ではない。
日本は比較的均一な社会と言われるけれど、だからといって国民全員がJIS規格で統一されているわけではない。
やはり、それぞれに趣味趣向も異なれば価値観も異なるのだ。ーーだからこそ、世の中は面白いとも言える。
「ニコニコ動画」は、確かに素晴らしいサービスかも知れないが、その「場」に先に入っていた先住ユーザー達が作り出す「場」の雰囲気が、どんなコンテンツが揃っているかやどんな反響が返ってきやすいかといったことによって、新入りにも伝わってくる。
そうした「場」の雰囲気というものが、サービスの質や機能以上にモノをいうことが多い。
同様に「はてなブックマーク」も日本を代表する優秀なサービスだと思うが、よく見てみるとかなり利用者がエンジニアに偏った「場」という印象が強い。ホットエントリーと呼ばれる人気記事にランクインしている記事を見ても、本当のマス(=大衆)が読んでいるWebページとはズレていることに気がつくことだろう。
これは私見かも知れないが「ニコニコ動画」、「2ちゃんねる」には同じ空気・雰囲気・背景文化が流れている(これは成り立ちを考えてもそうかも知れない)。
はてなブックマークも、上記2サービスと比べると利用者のオーバーラップは少ないかも知れないが、かなり近い文化圏にあるサービスに感じる。
私の偏見に満ちた印象では「テキスト」+「論理思考」で相手を言いくるめられる人があがめられる傾向が強い文化、理論武装で相手を論破できる人があがめられる傾向が強い文化だと感じている(あくまでもバランスの問題で、すべてがそうだとは言わない)。
これに対して、クリエイティブ系の仕事をしている人達は、より右脳的な価値に重きを置く人達のバランスが多いというのが筆者の勝手な決めつけによる印象だ(こちらも個人的印象であり、しかも、全員が全員そうだとは言わない。まず、デザイナーにしても、まずハンドドローイングしてから作品をつくる人もいれば、まずは言葉でコンセプトを練り込んでからカタチにする人もいる)。
こうした価値観の違いによって好む「場」にも違いが生まれる。
例えば、有名な絵を見て、まっさきにウンチクになりそうなことを語り出す(あるいは解説を見て暗記しようとする)人もいれば、感受性のバルブを最大限に開いて、絵を身体全体で感じる人もいるだろう。
音楽を聞いて使っている楽器だ、マイクだが気になる人もいれば、メロディーに酔っていてそれどころではない人もいる。
スペックシート上の機能や性能を重視する人もいれば、気持ちよく過ごせることの大事さを重視する人もいる。
私は、一時、InterFMに毎週出ていたが、スペックシート左脳偏重型人間なので、どうしても決められた時間に、たくさんの情報を詰め込んで早口で話そうとしてしまうが、一緒にやっているDJは、朝のひとときをいかに気持ちよく過ごしてもらうか、流れるように話、流れるようにトークを音楽につなげることに重きを置いていた。それがかっこよく、自分もそういう空気づくりができる人間になりたいと強く思った。
「合うサービス、合わないサービス」というのはこうした価値観の違いによって、生まれてくるモノじゃないかと思う。
では、もちろん、最初にどうやって「場」の雰囲気が固まっていくかというと、その点では「場」がどうつくられているというスペック的な影響もある。
これまた筆者の偏見に満ちた印象だが「テキスト文化圏」の人は「文字のきれいさ」や「配色」、「ホワイトスペース(=何も書かれていない余白)の広さ」といったものにあまり重きを置いていない気がする。それが悪いと言うつもりはない。これも価値観の違いであり、センスの問題もである。筆者自身、右脳/クリエイティブ文化圏に好意を持ちつつ「テキスト文化的表現」寄りの人間だから、このブログ記事も文字が多くて、クドくて長すぎるのだと反省している。
ただ、そうした自分と「異なる場」、「異なる価値観」も認められないことには、受け皿の狭いサービスしかつくれなくなってしまうのではないかと心配しているのだ。
デリケートな話を、私見をたくさん混ぜながら書いた。
読みながら鬱憤をためている人もいるかも知れないので、ここで閑話休題して、「場」の空気を変えよう。
下の2枚の写真を見て欲しい。
これらはいずれも同じ2007年10月25日、Mac OS X "Leopard"というOSがリリースされた日の写真だ。
1枚目は、Apple Store Ginzaの様子。
2枚目は、そこから歩いて10分ほどのビックカメラ有楽町店のApple Shop(Mac販売コーナー)の様子だ。
1枚目の写真で背広族の人を、2枚目のTシャツ族の人を探してみよう。
Macなんて、パソコン市場でいえばシェア5%ほどのマイナーな存在。
同じような趣味趣向、同じような価値観を持った人達の集まりだろうと思っている人もいるかも知れない。しかし、そのMacユーザーという狭い世界の中にも、これだけの多様性がある。
背広族の人は、銀座のおしゃれな雰囲気なのかApple Storeの明るすぎる雰囲気は「場違い」と感じるのか、揃って量販店に集まっていた(別に示し合わせて集まっているわけではないと思う)。
その一方で、自由気ままなかっこうのクリエイター系っぽい人達は、Apple Storeで陽気に「イェーイ!」などと歓声をあげながら新OSのリリースを祝福していた。
海外では完全にブランドコントロールがされた直営店戦略に力を注ぐアップルだが、この写真を見る度に、日本ではApple Storeと量販店に設置されたApple Shopの両輪戦略を展開していて正解なんじゃないかと思わされる。
ここで得意なアップルの話が出たので、筆者の得意なアップルの話で記事を〆させてもらおうと思う。
「場」と「コミュニティー」の関係についてだ(「クラスター」という言葉を使った方がよかったか。でも、書き直すのは面倒だし、そこまで手間をかけるとブログの更新ペースがにぶるので、あきらめてこのまま…)。
両者の関係は1:1ではない。
昔、MacPeopleという雑誌の読者欄ではよく「MacユーザーはAudiに乗っている人が多い」という投書が集まった。読者欄の担当が、好んで取り上げるのか、毎月のように「私も、私も」とMacを使うAudi乗りの投書が集まった。
しかし、その数年前、実はMACPOWERという雑誌の読者コーナーではMacユーザーはBMW(だったかな、うろおぼえ)に乗る人が多い、という投書がよく取り上げられた。
これらの投書の見方は実は逆だ。
Audiに乗る人、BMWしか考えられない人、RENAULTを選ぶ人、といった何かスペックシートでは語られないものに価値を感じて、信念とこだわりを持って車(や、その他のモノ)を選ぶような人の中は、パソコンを選ぶ際にも、こだわりと信念を持ってMacを選ぶ人が多い。
そうした価値観の人の中でも、何らかの事情でどうしてもMacがダメな場合でも、やはり選ぶパソコンは決まっていて、結論としてリチャード・サッパーのデザインと質実剛健なつくりからThink Padを選ぶか、Mac同様にライフスタイルの象徴でもある(でもあった?)VAIOを選ぶことが多い(でも、実は大衆に売れているのはNECや富士通のパソコンだったりする。)。
そういったベクトルも含めて考えると、今のiPhone、今のMacは恐ろしいことになっている。
例えばミュージシャンの方々は圧倒的にMacの利用率が高い。
グラフィックなどの仕事をしている人も、Mac利用率が高い。
Ruby On Railsという技術が出て以降、Webサービスをつくるエンジニアの達の間でも一気にMacが広まった。
一方でKeynoteとスティーブ・ジョブズのプレゼン本の大ヒットのおかげで、営業系の人達や企画屋さんの間でもMacとKeynoteが必須のプレゼンツールになりつつある。
医者のコミュニティーもMacユーザーが多い。
このようにMac率が高い職種を見ても、実に多種多様ならば、趣味や価値観の点で言っても多様性が大きい。
ファッションが好きな人達もiPhone好きが多ければ、
クラブ系音楽が好きなような人達もiPhone好きが多い、
一方でマンガとかアニメが好きな方々にもiPhone好きが多く、実際、AppStoreのランキングにも、しばしばマンガ関連のアプリがランクインしているのをよく見かける
この多様な世界で、アップルはいかにしてこれだけ多様なコミュニティー(クラスター)を惹きつけるのか。
私はその秘密が、まさに前の記事:
nobi.com : シンプルを突き詰めることの強さ
にあるのではないかと思っている。
今のアップルの製品の外観は無色透明。 男性用の外観でもなければ女性用でもない。 子供用でもなければ年輩用でもない。
要するに余計な要素、余計な装飾、余計な配色がないからこそ受け皿が非常に広いのだ。
それにスマートフォンは「ソフトウェアの実体化でなければならない」という本質をよく見極めているから、主役である「ソフト(=画面)」をカタチの上でもめいいっぱい大きくとり、余計なものを視界から一切排除することで、ある時はCHANELのバーチャルファッションのシアターに、ある時は専用のDJマシンに、そしてある時は読み切れないほどマンガが詰まったマシンにと姿を変える(使っている間、それぞれのユーザーに、iPhone=ファッションのマシン、iPhone=DJのマシン、iPhone=マンガ端末みたいと感じさせる。これこそがiPhoneの強さだ)。
余計な要素を加えていないが故に、受け皿も入り口も広いのだ。
実は、もう1つ受け皿・入り口の広さで成功したものがあるーーTwitterだ。
日本人は匿名文化だ、ソーシャルネットワークでアニメのアイコンを使う人が多いだ、といろいろな意見を聞くが、それは他国と比べた場合の比率の問題で、実は実際の写真を出し、実名でつぶやいている人もそれなりの人数はいる。
Twitterは、誰をフォローしているかによって、まったく場の雰囲気が変わってくるメディアだ。
上の2つの図、1つめは私に見えているTwitterのタイムライン、 2つめは、miseatterというサービスに登録している見ず知らずの人3人に見えているTwitterのタイムラインだ(許可なく適当に選ばせてもらったので、公開されている情報とは言え、ボカしをいれた)。
ボカしているので、つぶやきまでは読めないだろうが、フォローしている人達のアイコンの様子をみるだけでも、空気感の違いのようなものは感じてもらえるだろう。
どれがいい、どれが悪い、という問題ではない。
ただ違うのだ。
ちなみにmiseatterというのは、twitterの理解を深めるのには便利な面白いサービスで、登録し、自分のタイムラインの共有を許可すると、タイムラインがどう見えているか人と見せ合うことが出来る。 実際に上のリンクをただってもらうと、大勢の人が、タイムライン共有を行っているので、フォローする相手によって、どれだけ雰囲気が変わるものか体感してもらうのが一番いい。
フォローする相手によって「場」の雰囲気がまったく変わってくる。この柔軟な性質のおかげで、Twitterは芸能人から政治家、IT系の人達、アート好き、デザイン関係、アニメ好き、マンガ好きなど幅広い層に愛用されるサービスになっているんじゃなかろうか。
つづきの記事: