理想からの発想 vs 問題点からの発想

英語版blog、"nobilog returns"に書いたので、こちらにも。

nobilog returns: self-checkout cashier au japon

先日、ちょっと感動した大崎ゲートシティーのRELUCK。
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ここ、なんとお客さんが自己申告清算してEdyで支払える、という画期的なシステムを導入しているのだ。

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Edyをインストールしたおサイフケータイをカードリーダーに置いたら、
買ってきた商品のバーコードをを自分でスキャン。
合計金額を確認してOKボタンを押すと、清算完了。

あとは自分で商品を袋詰めにして(あるいは、もっとエコに持っている自分の鞄に入れて)
レシートを取って立ち去る。

この企画を、この日本で通した人達も、こういうサービスを受け入れている大崎ゲートシティーも
本当に先進的だしスゴいと思う。

これこそ我々が求めるべき「理想の未来」なんじゃないかと思う。



投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2008年10月01日 | Permalink

本屋とセレンディピティーの話

2008-08-14 15:56:11 +0900
先日、14日、お盆のさなか、パスポートの更新のために銀座の交通会館に行った。
お盆の時期は、東京はいつもガラガラ、だから人もいないだろうと思っていたらとんでもない勘違い。
交通会館の人に「この時期が1年で一番混むんですよ」と言われた。
1年の中でも、このお盆の2日間が一番混むらしく、帰宅後ホームページを見ると、たしかにそう書いてあった(今は書いてない)。
 2009年以降のお盆にパスポートを取得/更新しようと思っている人には、お盆が終わった翌日以降にいくことをお勧めしておきたい。あの大行列に並ぶくらいなら日にちをずらした方が、人生の時間を有効に使える(もっとも整理券をもらって、しばらくITOCIA辺りをうろつくという手もあるが。そういえば交通会館の3階だか4階から外に出られるというのを今回初めて知った。上の写真はその時の写真だ)。

 あまりにも時間があまったので、交通会館の喫茶店(分煙しているところが少ないので煙が嫌な人は注意)で時間をつぶし、屋上で写真を取り、その後、中にある三省堂書店に行った。
 よく考えてみると、ここのところずっと忙しく、寄り道時間が少なかったので、リアルの書店に行くのは本当に久しぶりだった。
 で、思ったのだが、やはりリアルの書店は、本当に危ない。
 物欲が刺激されまくる。
 もしかしたら、交通会館の三省堂が特にそうなのかもしれないが、視界に入ってくる本、視界に入ってくる本、すべてが眩しくて、興味をそそられるのだ。

B型の時代は終わった?

 Amazonも確かに便利だ。
 効率的に自分の欲しい本を見つけられる。
 そして、ややお仕着せの「お勧めの本」も出てくる。
 でも、それは例えばiPodの本を買うと、iPod関連の他の本が出てくるという類いの物で、自分の他の趣味にまで広がっているわけではない。
 私はIT関係も好きなら、現代アートも好きで、デザインや建築にも興味があり、イノベーションの話しも好き、旅行の話しも好きならば、雑誌「REAL SIMPLE」(の米国版)に出てきそうな話題も好きだ。
好きな雑誌をあげると私の一貫性のなさが見えてくるかもしれない。
なんといっても好きなのは「Noblesse」、「Paper Sky」、「和楽」、「Pen」といった雑誌。
でも、「日経アソシエ」や最近の「月刊ascii」も嫌いじゃない(昔は昔の月刊アスキーが好きだったが)。

アメリカに行くと帰りの空港で必ず「REAL SIMPLE」の最新号を買って帰る(私はあれはLife Hack本だと信じて疑わない)。
 そんな多様な関心を持つ私にはAmazonのレコメンデーションは幅が狭すぎる。
(こちらの麻倉さんのインタビューで言うところのコクーンのような存在で、まだSPIDERの域には達していない)。

その点、リアル書店だと、360度の視界の中に、
次から次へと魅力的な本の表紙やタイトルが立体的に飛び込んできて物欲を刺激されまくるのだ。
あれはかなり危険な場所と言えよう。

もちろん、リアルな書店には、Amazonにあるようなブックレビューはなく、
「果たして本当にこの本でいいのか?」不安に思わされるところもある。
しかし、その時、ふと思った。
実はそれを自分で判断するということこそが、失ってはならない「野生の勘」の1つなんじゃないかと。

昔、学生の頃は、参考書を買うときも、似たようなタイプの2大参考書、
果たしてどっちの方が本当にわかりやすいのか、など常に野生の勘を試されていた。
で、自分でパラパラっとページをめくり15分ほど比較した後で、
「こっちだ、こっちに違いない!」と野生の勘で判断していた(そして時にはその1週間後に「やっぱり、あっちだった」と敗北宣言をして、もう1冊を買い直していた。そこで、このままもう片方を買うのは悔しいからと反抗して第3の選択肢を選んでしまい、さらに1週間後、「今度こそ負けた」ともう1つの2大参考書を買ったこともある)。

Amazonのレビューは、確かに便利だし、非常に参考になる。
でも、そればっかりに頼っていると自分の判断力が鈍ってしまう。
この野生の勘を常に、ある一定レベルに保っておくためにも、リアルの本屋にはしばしば足を運ぶべきだと、改めて思った。

もちろん、私はAmazonも大好きだし、Amazonにもいいところがある。
特にAmazonを活用していて、ブログも持っている人には、ぜひともAmazonアソシエイトプログラムを活用することをお勧めしたい。

投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2008年08月17日 | Permalink

卵と鶏と発想の飛躍と

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ブログはやはり思い立ったときに更新しないとダメだ。
書こうと思って、溜込んで後になって書こうとすると、
本当に書きたかったことを忘れて後で後悔する。

1つ前の記事「何を出発点にして、それをどう評価していくのか」は、
「IT系ニュース媒体の写真にかけられたモザイク」と「器械体操の評価方法」を出発点に、それまでなかった新しい技術を、何を土台にして、どのベクトルで評価すべきかについて書いた。
でも、実はこの議論だけでは足りず、もう1つの視点を書き加えようと思っていたことを、後になって思い出した。

前の記事に対してmixi経由で、それでもやはり「もし何かあった場合に、被害に遭って嫌な気持ちになったりする人の側に立って考えると、モザイクは仕方がない」というコメントを頂いた。
まったく持ってその通りで、この議論は、卵が先か鶏が先かの堂々巡りな部分がある。
実は先週末、寝付けない夜に、この卵と鶏の議論を頭の中で繰り返していた。

その後、私が以前、ちょっとやりたいと考えているあるプロジェクトのことを思い出し、
それがきっかけで、性善説を核にした方がいい、という結論にたどり着いたのだ。

持論を押し付けるつもりはないが、ものの考え方の一つとして、みなさんの意見を伺えればうれしい。

卵と鶏の議論は、メビウスの輪のような物で、この輪にばかり目を向けていたのでは、
いつまで立っても解決の糸口は見つからない。
そこで、もしすべてがうまくいって健全な社会が成り立ったらと仮定してみたのだ。

そういう社会が成り立ったとしたら、おそらくそこでは、
人々は他の人が困っていれば手を貸すが、必要以上には干渉しない。
そしてプライバシーへの過剰反応はなくなるだろう。

革新的技術の悪いところは、開発者に正々堂々と正面から指摘するが、
それはそれを、もっとよくしてもらおうという建設的な提案であって、
相手をおとしめるのが目的ではないし、ちゃんといいところも評価するだろう。

果たしてそういった理想は成り立つものか?
完全に成り立つかというと自信はないが、
少なくとも今から十数年くらい前までは、もう少し世の中のバランスが健全よりだった気がする。
ということは、もう少し舵をそっちよりに振ってもいいのではないか。
そうやって考えたら、やはりアクションの源流の方から、
少しずつ健全路線に戻していってもいいんじゃないかと思えてきたのだ。
(記事を早く書き上げるために私基準の「健全」というやや抽象的な表現をしていることをお詫びしたい)。

さて、ここで私をこの思いに至らせた、
ちょっとやりたいと思っているプロジェクトについても、少しだけ触れておこう。

投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2008年08月13日 | Permalink

何を出発点にして、それをどう評価していくのか

[UPDATE: 最初の記事では、注意はしていたのですが、ascii.jpだけがそういう処置をしているような誤解を一部の人に与えてしまったようなので、UPDATEして、asciiだけではないことを改めて強調しておきました]

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またしてもイノベーションを生み出すための議論だ。
ここ数日、ずっと考えていたことだが、これから忙しくなって、
またブログの更新が滞るかもしれないので、そうなる前に書き残し、
人々の議論の種にしてもらおうと思う。

今の世の中では、せっかく素晴らしい製品・サービスを開発しても、
すぐにそれを悪用する人が出てきて困ることがある。
それだけに、新しい製品・サービスに対する評価も、保守的で厳しくなることが多い。

「それはこんな犯罪に使われるんじゃないか」であるとか、
「そんなものを出して、もし、犯罪に使う人が出てきたら誰が責任を取る」といった類いの議論だ。
確かに、せっかくの便利な技術も、悪意を持った人や犯罪者を利することになっては困る。

しかし、だからといって悪意を持った人や犯罪者を基準にものごとを考えていては、
いつまでも立っても、その悪意中心のパラダイムから抜けられないんじゃないかと、ちょっと心配だ。

知らない人は(もしかしたら知っている人も)全員、悪事をたくらんでいるという性悪説に基づいてものごとを判断していたら、いつまでも悪意が溢れていることが前提になってしまう。

でも、我々が本当に求めているのは悪意のない、健全な社会のはずだ。

話しがちょっと抽象的過ぎるので具体例をあげよう。

最近、Webのニュース媒体の街頭取材の記事では、
記事中の写真に写っている人の顔にモザイクがかけてある。
私はあれが何か不気味かつ病的に感じられて生理的に受け付けない。

こちらのascii24でApple Store Sapporoのオープンの取材記事を見て欲しい:
開店までの人々のドラマを追体験! Apple Store Sapporoがオープン

取材中は、オープニングイベントに来ていた子供たちの明るい笑顔を撮り、得意げだったのだが、いざ記事になってみると、その子供たちの笑顔の上にモザイクがかかっていてショックを受けた。

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{ここから追記}
ここで明記しておくが、これはascii24(現ascii.jp)だけがそうしているわけでない。
インプレスWATCHやITmediaの一部など、他の媒体も皆、同じ処理を施している。
(といっても、そういう処理を施しているのはIT系の媒体が多い!?)

プライバシー保護のため仕方がない処理だと言うことで、本来は顔が映らないように後ろから撮るであるとか、遠目に撮るのが理想だと言われたことは、媒体と編集者のために付け加えておこう。

{追記ここまで}

当時、この辺りの状況に詳しい他出版社の編集者と、話しをつきつめていったところ、
要するに一般の人の顔写真を特定可能なURLに載せておくと、
掲示板などに、その人についての評論や、あることないこと書き連ねて、そのページにリンクをしてくる輩がいるから、一般人の顔写真は載せない方がいいというのだ。

その時は「なるほど」とも思ったが、やはり何かすっきりしないものがある。

だって、それってどう考えても、悪いのは、掲示板にそういう書き込みをする輩の方であって、
そういう人達のために、世の中のシステムをあわせていってしまうと、
どんどん、そういう行為が当たり前になっていってしまう気がしてならない。
そもそも、そんなモザイクのかかった、不気味な写真ばかりみて育つ子供たちのことを考えてもかわいそうになるし、そうした中から、そういう不健全な方向に物事を考える輩が育ってしまうんじゃないかと思うと不安でしょうがない。

それよりは、モザイクを外して、一般の人々の素敵な笑顔の写真を一枚でも多く掲載した方が、
健全な社会を育む上でも、今の社会を理想の社会に近づけて行く上でもいいんじゃないかと思えてくる。

もちろん、世の中には、残念ながら、常に悪意を持った人達がいるわけで、
そうした人々に対しての何かしらの対策を考える必要はあるだろう。

だが、私はものごとの考えのベースとなる部分、核となる部分、出発点となる部分は、optimisitcな性善説にしておかないとイケナイんじゃないかと思えてしょうがない。

投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2008年08月13日 | Permalink