私が3D革命=実体革命に入れこむまでの遍歴(そして実は日本は凄い、という話)

 上は今朝(2013年1月2日)、別所哲也さんがナビゲーターを務めるJ-WAVE「TOKYO MORNING RADIO」に出演した後、3D造形の魅力を伝えようと、なんとか140文字でこの凄さを伝えようと、スマートフォン前のiモードなどの話をはしょって書いたツイートだが、ここ数年、私が強く思っていることだ。

 ただ「3D」というと、どうしても大コケし日本の家電メーカーを弱体化させた「3Dテレビ」の印象が強い(実際に3Dなわけではなく目の錯覚を利用した疑似3Dなのにも関わらず)。
 なんか、今、3D技術周辺で起きている、もの凄い革命を総括できる、いい呼び名はないかと思っていたけれど、ブログのタイトルをつける瞬間「実体革命」という言葉が浮かんできた。
 しばらく寝かしてみるとどうかわからないが、今はすごくいい言葉に思えているので、少なくともこの記事では、この言葉で通そう。

 一言で何をやっている人かわかりにくい私が、これまで23年間、自ら営業することもほとんどなくなんとかやっていけているの要因の1つに「未来のテクノロジーへの嗅覚」があるのではないかと思っている(ちょっと自分的には大胆すぎるかな?と思うけれど、お正月だし、言い切らせて欲しい。ちなみに「儲かるテクノロジーへの嗅覚」はない。「サブカルテクノロジーへの嗅覚」もゼロであることは自信を持って断言できる)。
 ちょっと、2013年を迎えるにあたって、その遍歴を辿ってみたい気になった。

 正直20世紀中は外れる予想も多かった(アップル発でIBMやNovellといった大手も参加していたOpenDocという技術に心底惚れ込んでいた時期もある)。

 だが、2000年頃にGoogle社に注目し、日本ではかなり早期の紹介記事を書いたあたりから風向きが変わった気がする(MACPOWERという雑誌で紹介記事を書いたが、その後、編集部を後ろから見ると、編集者達がみていた画面が、毎日、ヤフー!やAltaVistaという検索サービスのページから、どんどん真っ白なGoogleの画面に切り替わっていくのを見るのが壮観だった)。


2001年Larry Page、日本発訪問の様子。画像のリンク先はこの時、語られたGoogleを成功に導いた教訓

ブログ



初期の私のブログ(=nobilog)

 その後、2002-3年頃からは、まだ登場したてでWeblog(ウェブログ)と呼ばれることの方が多かった「ブログ」という技術に注目した(Weblogが転じて、We blogとなり、blogという言葉が生まれた)。
 MACPOWERの編集会議で「blog」のトレンドを記事で取り上げるべき、と提案したときは、まだ日本語に対応したブログサービスがなく、私自身もMoveble Typeというブログシステムを日本語に対応させる方法をインターネットで検索して改造して使っている1人だった。
 編集会議で提案すると、すぐに「欧米では、皆、自己アピールが強いから、ブログのようなものが流行るかも知れないけれど、日本人はそんなに自己アピールをする人がいないからニーズがない」と一刀両断にされたが、実際、私自身も当時はそのとおりだと思っていた。

 その後、日本が世界でももっともブログによる情報発信が多い国になることはもちろん、カリスマブロガーなるものが生まれてテレビなどにも登場する時代がくるとも思えなかったが、とにかく、ただ「ブログ」という技術と、その周辺に集まっている人たちが絶対に無視できない強烈なエネルギーを発していた。そこで経緯は忘れたが、なんとか4ページほどの短い単発記事を書いた。
 その後、ブログが大流行するのは、皆さんもご存知の通りだが、このブログを企業内での知恵の共有に使おうと言うビジネスブログというトレンドは、実は日本から始まって世界に広がった。
 その「ビジネスブログ」という概念の誕生にかなり関わり、普及にも積極的に務めたのが、小川浩さんだが、その後、小川さんが「ブログ」を知るキッカケになったのが、私のMACPOWERの記事だった、と聞いたときは、ほんのちょっとでも世の中に貢献できた気がして、とてつもなく嬉しかった。
 この頃、drikinが、その当時、既にブログに注目していた人を集めて開催していた「ブログディナー」で出会った人々は、今なお私にとって重要な友人達で、仕事、プライベートを超えて関わることも多い。


当時、日立でビジネスブログをサービス化していた小川浩さんとの出会いがきっかけで、日立のサイトでもブログを書いていた。まだ残っていた!





SNS


mixiはなんといっても女性受けが良いのが素晴らしかった。日本のITサービスを脱ギークの方向に向かわせた功績は大きい。野田さんと共著で、こんな本も書いた。

その次に私の嗅覚が反応したのは2004年「SNS(ソーシャルネットワーク)」というトレンドに対してだった。この年の1月、ェアウェア連載で紹介し知り合った英国の友人、James Thomsonorkutというサービスに誘ってくれた。Googleの現役社員がつくったサービスということで注目を集めていたが、当時でも今のFacebookやmixiに似たことが色々とできた。
 ソーシャルネットワークといっても、今のSNSのように誰でも入れるわけではなく、当時は招待状をもらった人しか入れなかった。見てみるとアップル社の重役や有名人、ミッチ・ケイパーやエスター・ダイソンといったIT業界の有名人が勢揃いしていて「ここは凄い場」だと思って、毎日、入り浸っていた。
 元々はFriendsterというサービスが、大ヒットし、これがこのOrkutやmixi、GREEを生み出すきっかけになったが、私は当時、Friendsterは触れてはいなかったし、Orkutが初めてのソーシャルネットワークだと思っていた。しかし、この正月、よく思い起こしてみると、このOrkutの直前にfotologというサービスにハマって、iモード携帯電話から写真を投稿しまくっていた。元々は携帯電話からブログを更新する方法を探っているうちに出会ったこのサービスだが、写真を投稿すると、すぐに世界中からさまざまな反応が返ってくるのが面白くて、すぐにハマり、このサービスによって、かなり写真の腕が磨かれたような気がする。
 携帯電話などで撮った「今日の東京」の写真を、誰でも投稿できる「Tokyo Today」というグループをつくったところ、そこでたくさん仲間ができ、一度、勇気を出してfotologの仲間で集まるオフ会をアークヒルズで開いた。この時の友達の中にも未だに友達、という人が多い。
 ちなみにfotologは、編集者の反応は薄かったが、MACPOWERのDTPデザインなどをしているデザイナーさんたちの間にはハマる人が続出。確かfotologも一度、MACPOWERで単発記事の企画に関わった気がするが、この時には、編集者ではなく進行のyukilogueさんやデザイナーさんたちといった記事の中身など左脳的な部分で関与している人たちでなく、右脳的な関わりをしている人たちが積極的に関わって記事をつくった気がしている。
 でも、実はそこから、さらに遡ること数年、2001年に表参道のスパイラルホールで印象深い発表会があった(シェアウェア連載で紹介し知り合ったBasukeが開発に関わっていて招待された)。前田邦宏さんがつくった「関心空間」が発表されたのだ(今、久しぶりにアクセスしたらアカウントが消えていた、ショック...)。
 日本人はシャイだから、いきなり知らない人と友達にはなれないし、本当の友達ともそれほど話す話題はない。だから、自分が関心のあるモノをキーワードとして登録して、そのモノを媒介にして人と人の関係を育もう、という素晴らしいコンセプトのサービスだった(まさか、それから十年後、TwitterやFacebookで、押し売りのように友達関係を迫ってくる人が、これほど大勢でてくるとは、当時、想像もできなかった)。
 TechWaveの増田真樹をはじめ、大勢の人とこの関心空間で知り合った。
 そして、この増田さんから招待状をもらって入ったのが、サービス発表前のmixiだった(おかげで私のmixiのIDは、多くのmixi社員よりもはるかに桁が少ない135番だ)。
 そして神田さんをmixiに招待する代わりに招待してもらって使い始めたのがGREEだった(こちらはIDが54番?)。
 当時はmixiも、田中社長がまだ楽天市場の従業員で課外活動としてつくっていたGREEも、非常に面白く、毎週のようにめまぐるしいほどの進化を遂げている時期だった。
 サービス開始前のmixiで、創業者の笠原さんに「日記」という機能は素晴らしいけれど、ぜひ、写真もアップロードして欲しいと懇願したのは、当然、fotologの影響だ。その後、数週間してmixiには写真の投稿機能が搭載された時は本当に嬉しかった(もっとも、自分の功績だとは思っていない。mixiにいた聡明な方々は、Friendsterなど他のSNSも研究しつくしていたし、そもそも誰かが提案したことがすぐに採用されるような文化ではなく、今も昔もmixiは堅実かつ着実にじっくりとことを進める企業文化を貫いている。ただ、それから数年後、mixiのAPIを公開し、ソーシャルグラフを使って楽天市場のような物販を行うべきだと提案したときには、本当にそうして欲しかった。Facebookより、圧倒的に早いAPI公開になった。外から口を言うだけでは何も変えられない。今年からは身を投じて関わっていくようにしよう)。

 mixi、GREE、これら面白いサービスを、なんとか世の中に広げなければと、例によってMACPOWERで記事を書くのだが、これは何もMacユーザー向けのサービスではない。なんとかもう少し読者層の広い雑誌にも記事を書かなければと思い月刊アスキーという雑誌にも記事を書いた。
 このmixiやGREEで、知り合う友人の数が激増する。当時は日本にもFacebookのように同窓会を開くことを目的にした「この指とまれ」というソーシャルネットワークもあり、これらのサービスを使って旧交が復活したケースや、新たに出会った素晴らしい人は数知れない。

 ついにITが、画面の外にある人間関係にも大きな影響を及ぼすようになったのだ、と記事を書きながら、胸が熱くなるのを感じていた時代だ。

Twitter


2007年春当時のTwitter

ブログディナーやソーシャルネットワークで知り合った、次の波への嗅覚が鋭い人たちとの交流のおかげで、検索だけに頼っていた頃より、圧倒的に最先端の情報が集まりやすくなり、いくつかの小波も乗り継いできたが、ブログ、SNSにつづいて「これは来る」と思ったのは2007年頃「Twitter」に対してだった。
 SNSの登場以前は、ブログディナー仲間が何か面白いモノを見つけると、皆、数十分から1時間をかけてブログの記事を書いて、それを詳細に紹介していた。
 その後、SNSが広がったことで、mixiなどでもっと簡単に、しかも親しい仲間内だけに写真入りの記事が公開できるようになったことで、新サービス情報の交換はさらに活発に行われるようになった。
 こうしたサービスのうち、何がきっかけだったかは忘れたが、2007年の4月頭にTwitterを始め、その数日後にあったブログディナーで同時にTwitterにハマり始めたブログ仲間や、TwitterよりもTumblrが好きだと言うブログ仲間に軽く話を聞いて、こちらの記事を書いた:

林信行のマイクロトレンド ― 第5回:アルファブロガーを魅了する“ミニブログ”

記事が掲載されたのは確か金曜日だったが、記事の図では14人だった私のフォロワーが、週明けには100人以上に増えていた。
その後も1000人、5000人、1万人と増え続け、そこからTwitterが、ただの情報発信ツールではない、ということを身をもって体験。
 いくつかの著書でも紹介するようになった。
 それから数年(Twitterは、あまりに色々あるので、途中の話は省略)、ある日、Twitter社の社員を名乗る方から私が本人であることを確認する電話があった。私をTwitterのお勧めユーザーにする、という連絡で、それに選ばれたことで、しばらくは毎日数千人のペースでフォロワーが増えていった。
 現在、約21万フォロワー。偶然とは言え、そういう立場に置かれた幸運への責任も感じ、東日本大震災の時には、誰が一番、必要な情報を得られていないかを、できるだけしっかり調べて必要な情報だけを発信/RTし、急増したTwitter利用者が、善意がありながらうまく情報発信できてないことが歯がゆく、いくつかのブログ記事も書いた:

公式RTのススメ
ツイッターで混乱広げないための、2ステップの工夫
震災後56時間の間に考えていたこと

 今では、かなりFacebook利用に軸足を動きつつある今だが、今でもTwitterは私にとっても、日本にとっても重要なツールだと思う。

アップル、iPod、iPhone、iPad



 このTwitterを使い始める数ヶ月前に発表され、2ヶ月後に発売されたのが初代iPhoneだ。そして、その3年後に発表されたのがiPadだ。どちらも発表の瞬間は生で取材している。
 今、iPhoneについて色々と書いている人たちの中でも、スティーブ・ジョブズの基調講演の中でももっとも完成度が高いと言われる2007年1月MACWORLD EXPOの講演を生で見た人は、かなりの少数派のはずだ。
 だが、それ以上に少数派なのは、2001年アップル本社で行われた初代iPod発表会を取材した人だろう。そもそもアップル本社内の講堂は狭くて入れる人数が限られている。しかも、当時は9.11のテロの直後、テロ警戒で乗る飛行機、乗る飛行機ガラガラで、iPod発表会の取材も日本からメディアとして行ったのは私一人だけ(ただし、シリコンバレー在住の日本人ジャーナリストは何人か参加していた)。アテンドで現地に向かったアップル社日本法人の広報に私のせいで「こんな危険な時期に飛行機に乗るハメになった」と言われたが、当時はそれくらい飛行機に乗るのは勇気のいることだった。実際、アメリカ在住、アメリカ人の記者でスティーブ・ジョブズのインタビューなども何度もしている(当時はNewsweekに書いていた)Steven Levyさえ、当時、New Yorkにいたため、命を賭けてまで取材する必要はない、とせっかくの機会を棒に振っていた。
 いずれにせよ、このiPodの発表でアップルは、自らを改造するチャンスを得て、実際にそのチャンスを活かし、それを大きなiPhoneというさらに大きな革命にうまくつなぎ、今ではiPhoneすらも上回りそうなiPadという革命に続けていった。
 これがただの新しいデジタル機器のブームだと思っている人は、ぜひ、私の講演を聞きにきて欲しい。
 Twitterやソーシャルメディアで、政治やビジネスのやり方、人間関係まで世の中の幅広いものが大きく変わってきたのと同様に、スマートフォンやタブレットも、医療や建設、ファッション、漁業、農業、とにかく、私も含め誰も全体像が見えないくらいに、世の中を根幹から大きく変えつつある(そして、こうしたスマートデバイスの突飛な活用事例の多くは日本=特に大阪など関西=で誕生しているのは非常に誇らしいことだ)。

そして実体革命へ



3Dプリンターでつくられた映画に登場するキャラ。最近はこうしてつくられたオブジェクトがハリウッドで使われることも多い

佐賀大学大学院工学系研究科の中山功一教授は細胞を立体的に積み上げ最終的には臓器までつくれる3Dプリンターを開発中。血管をつくるまでは成功している

 今では電気や水道、ガス、そしてインターネットのない生活が想像できないのと同じで、気がつけば我々はソーシャルメディアやスマートフォン/タブレットなしでは成り立たない社会へ、既に数歩足を踏み入れつつある。
 ここまで世の中を根底から変える技術の登場は'90年代半ばのインターネットの普及以来だが、私はこのスマートデバイスとソーシャルメディアの革命をiPhoneとTwitterの頭文字をとって「iT革命」と呼んできた。
 そして、これを上回る革命は、今後もしばらくは起きないだろうと思ってきた。
 しかし、2年ほど前から徐々に考えが変わり始めた。きっかけはケイズデザインラボの原雄司さんとの出会いだ。
 これまでは画面の中の世界をつくるだけのIT技術だったが、その後、スマートフォンやソーシャルメディアのおかげで、画面そのものが生活シーンや社会にどんどん浸食し始め、人々の生活や働き方、社会構造までも変えるようになった。
 ただし、今でもスマートフォンで遅れるのは文字のメッセージや写真といった情報だけだけで、実体を持つものは、相変わらず物流頼みだったが、今、この常識がちょっとずつ崩れつつある。
 私の友人は、SketchUpという3Dツールで、世界のそこかしこの支社に、新しい支店のデーターをメールの添付ファイルとして送っているが、それが数ヶ月後には現地で組み立てられ本物のお店になっているが、そのさらに先を行くのが3Dプリンターの技術で映画などに登場する架空のキャラクターの3Dデーターが、3Dプリンターでは生々しくもリアルな立体物として形を得られるようになる。
 そして、同じ3Dプリンティングの技術で、やがて人間の臓器などもつくれるようになる
 スマートデバイスやソーシャルメディアがそうであったのと同様に、この実体革命もIT業界だけの話ではなく、医療も、車業界も、物流業界も、もしかしたら1次産業もあらゆる業界を巻き込む、世の中を根底から変えるテクノロジートレンドだ。

さらにiT革命と実体革命が掛け合されれば、革命の範囲とマグニチュードは、さらに計り知れないものになるはず。

我々はもの凄くエキサイティングな時代の入り口に立っている。

そして、もう1つ忘れてはならないのが、こうした世の中のしくみを根本から変える次世代の技術で、常に最先端の事例を生み出し続けているのが日本だということ。その後、日本で育てられた事例が、いつの間にか海外で吸収され、いつの間にか海外発のトレンドの様相を呈してしまうことが多い。今後はそうした過去のトレンドのライフサイクルから学んでいければと思う。


投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2013年01月02日 | Permalink