Web日本語文化圏、私なりの考察
前置き1:写真は基本的に本文と関係ありません。上はTEDxTOKYOからの写真。「冒険」をすることの大事さ、人に「敬意」を持つことの大事さを説いた高円宮妃の基調講演は素晴らしかった。早くビデオが公開されるのを楽しみにしている。
前置き2:出張前のドタバタの中で、一気に書いて、振り返っていないので、誤字脱字は許して欲しい。
前置き3:あとで読み返したら、やっぱり、いろいろ読みにくい箇所があったので、6/6の20:14頃と21:15頃、前半部分をちょっとだけブラシュアップした。変更前の原文が気になる方は、mixi ID=135番に残してあるので探してみて欲しい。
前置き4:
iPhoneで読みたいという方は、ちのけんさんという方が、
最適化したページをつくってくれたので、そちらを試してみてください:http://ipor.jp/blog/nobi/
センセーショナルな記事タイトルで、この1週間、インターネット日本語文化圏を騒がせ続けたITmedia、梅田望夫氏、インタビュー。
この記事は狙っていた、いないに関わらず「インターネット日本語文化圏」を見直す、建設的で有意義な議論を活性化したと思う。
有名ブロガーも皆、この議論に参加し始め、私の出る幕などなさそうだが、ここでブログを更新せずに米国時間月曜日からのWWDCに出発してしまうと、またしてもnobilog2のトップページが真っ白になってしまいそうだ。
他に書かなければならない記事があることは承知の上で、私も便乗記事を書こう。ちょっと長めの記事になりそうだ。
ハイソ、ハイブロウを想像してみる
私は日本語圏と、その外(といっても主に英語圏)の最大の違いは、そのスケール感の違いだと思う。
ただ、その議論に入る前に、まずはITmediaのインタビューにも出てくるハイソ、ハイブロウといったものに目を向け、イメージを膨らませてみたい。
日本はまだ世界的視点で見ると「豊かな国」であり、「Work-Life」バランスでいうところの「Life」側を大きく享受している人も大勢いる。毎日、朝から終電手前まで、時間に追われて仕事をする人、「上司がまだ帰らないから」という理由で帰れず長い時間を会社で過ごす「Life」の足りない人が大勢いる一方で、平日の午後から優雅に美術館やゴルフの練習所で、豊かな時間を過ごす人も大勢いる。
サブカルチャーと違った方面のカルチャーを生み出したり、支えたりするには、そのようなゆとりのある時間の過ごし方が重要な気がする。ただ、そうした人々の中で、インターネットにドップリ浸かっている人は、まだまだ少ないんじゃないかと思う。
気持ちは分かる。パソコン画面の前に縛り付けられていたり、小さな携帯電話の画面に向かって、ボタンを連打しているよりも、いつもと違う日常の中に身を置いて自分を振り返ってみたり、素敵な人々と直接あってインスピレーションの洪水に溺れる方が楽しいからだ。
ちょっとだけ脱線すると、実はアップルが他のパソコンメーカーと違ったパソコンづくりができるのは、そういった価値を理解している社員が多いのも関係があると思う。まずは「パソコン以外の生活」がしっかりとあった上で、そこにフィットするパソコンをデザインしているのがアップルであり、だからこそ多くのクリエイティブな人々がアップルのパソコンを使うのだと思う。
もちろん、上で想像したようなハイソ、ハイブロウな生活をしている人々も、この時代だし、パソコンも使えば、インターネットも使ってはいるはずだ。
では、彼らのインターネット、パソコンの使い方はどんな感じか?
イメージしやすいように、多少の脚色と偏見を交えて書くと、こんな感じじゃないだろうか:
電子メールで季節のカードを送受信する。
Skypeで、留学中の家族や海外の友人と気ままに話する
Webブラウザで必要な調べものをする
で、上の用事が終わったら、さっさとパソコンの電源を落として、ノートパソコンなら画面を閉じてしまう。
わざわざ、Web上で何が話題になっているかを探すのにやっきになったりはしないんじゃないだろうか。
場の問題
もしかしたら、そんな人達でも、IT好きの友人に勧められて、1、2度は、海外でも話題の、ソーシャルブックマークや、その他のWeb 2.0系サービスやSNSも試してみたかもしれないし、ブログも書いてみたかもしれない。
でも、それに対する反応を見て好き嫌いとは別のレベルで、「なんか、これは違うな」と思って、使うのをやめてしまった人も多いんじゃないか。
例えば、午後、カフェで静かに読む本を探そうと、たまたま見かけた本屋に足を踏み入れてみると、水着の女性が表紙に描かれた本ばかりがズラーっと並んでいたら「うーん、ちょっと違うかな」と言って、別の本屋を目指すだろう。
TwitterやSNSで、突発的に集まった初めての人同士が多いはずのmeet-up/オフ会に、足を踏み入れてみると、顔見知りっぽい人が大勢集まって、自分はあまり詳しくないマンガやアニメの話をしている。あるいは、自分とはちょっと異なる宗教観とか政治観とかを話し合っている。あるいは自分は英語が苦手なのに、行ってみたら会場が外国人だらけだった。
やっぱり「ちょっと違うな」と感じて早退することになるだろう。
それと同じで、特に人同士のつながりやコミュニケーションが関わってくるサービスだと、最初に使っていた客層によって、後から入ってきづらくなる部分も多いと思う。
その点で言うと、mixiなんかは、基本的に同じ機能を提供しながら、うまくターゲット客層を変化させ成長してきたと思う(ちょっと堅実過ぎで遅過ぎた感は否めないけれど)。
ちなみに、「Life」側が充実している人が、それほどネット中毒になっていないのは、日本だけに限らず英語圏も同じだと思う。
アップルがWeb系のトレンドに弱いのも、アップルの「人」カルチャーが、どちらかというと、ディナーの席や午後のコーヒーにパソコンを持ち込むのは「無粋」と感じることができる社員が大勢いることが一因かもしれない。
それでも、日本のWebと英語圏のWebでは、確かに衆目に触れる記事の内容に、大きな違いがあるように感じる。
その違いはいったいどこから生まれるのか。
ここで、出てくるのが私の持論、「スケール感の違い」だ。
スケール感の違い
日本の人口は1億ちょっとだけれど、アメリカの人口は3億と、そもそもの人口の母数が違う。
日米で全人口の1%が持っている製品は、日本では100万個、アメリカでは300万個。
まあ、確かに多いけれど、それほど大騒ぎする差かと思う人もいるかもしれないが、
これがWeb上の英語情報となると、それを読む対象は、アメリカ人だけでなく、
イギリス人も加われば、一部のカナダ人も加われば、オーストラリア人、ニュージーランド人も加わる。
いや、それだけはない。
そもそも英語の雑誌にしたって、フランス人も読んでいれば、ドイツ人も読んでいれば、ロシア人だって読んでいるし、当然、多くの日本人も読んでいる。
この日本語文化圏と英語圏文化圏とでは、そもそものスケールがまったく違う。
私は英語媒体にも記事を書いているが、日本語の媒体と英語の媒体では、
そもそも原稿料も桁が違うし、記事を書いた後の反響の大きさもまったく違う。
日本では、大勢の読者を持つコンピューター業界誌の名前を出して、
米国のIT企業のCEOに取材を申し込んでも、
部下の人に「ごめんなさい。今回は忙しくてインタビューの時間が取れません」などと言われておきながら、そのCEOがイベント会場をぶらぶらしているところに鉢合わせなんていうこともしばしばあるが、同じCEOが、私がWiredに英語の記事を書いたとたん、「お前のWiredの記事を読んだ。あれはおもしろかった。ところで、今度、こういう製品を出すので、ぜひ、使ってみて、日本で売れるのか感想を聞かせて欲しい。」なんて熱心なメールを送ってきたこともある(あるそこそこ有名なゲーム会社だけど、あまりに現金だったので笑った)。
もっとも、これは現金なそのCEOが悪いのではなく、おそらく逆の立場でも同じことはあるだろう(*1)。
英語圏は巨大だ。しかも、その規模はどんどん大きくなっている。
昔、いくつかの記事で紹介したDid you know?のビデオを見ると、
インドや中国は、今、まさにアメリカすらを上回る英語圏になろうとしている。
これだけ規模が大きい英語圏では、それなりに情報の競争率も高い。
しかも、万が一、書いたヒットした時の、反響も、収益性が高い。
どこかでGoogleのAdSenseのクリック単価は、日本でもアメリカでもそれほど変わらないと聞いた気がするが(未確認)、それでも英語圏だと読者の母数が多いので、人気ブログならAdSenseの収入だけで、車を買ったり、家を買ったりも可能になる。
儲けも大きいので、作る側も全身全霊を込めて、質の高いものをつくろうとする。
ここまで、
・規模が大きい
・競争率が高い
・反響が大きい
・収益性が高い
多様性も大事
という話しがあるが、もう1つ、梅田さんの言葉を借りて、日本語圏と英語圏の違いをあげるならば、
これだけの規模の違いがあると、読者側のdiversity(多様性)も高くなり、
「群衆の叡智」が発生しやすいという要因もあるんじゃないかと思う。
さきほどオフ会の事例をあげたが、同じオフ会にアニメの人と、宗教の人と政治の人に加えて、アートの人やデザインの人や育児に熱心な人やガジェット好き、鉄道好きといった幅広い趣向の人がいれば、後から訪れてきた人も、もうちょっと居残りやすくなるはずだし、そうした雑多な人の集まりで、何か議論をした時には、何かより本質的にまっとうで、根を張りやすい意見がでやすいことは、「「みんなの意見」は案外正しい
」や「「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき」といった本で科学的に説明されている部分だ。
英語圏の人も、Webには偏りを感じている
もっとも、英語圏でも、やっぱり、日本と同じようにWebの世界のIT偏向を問題に感じている人もいる。
私の目から見たら、英語圏のTwitterは、十分、マスにリーチし始めていると思っている。
例えば「Susan Boyle」当たりのキーワードに反応している人々の顔ぶれをみても、そのプロフィールを見てみても、それほど「IT系」を感じさせない。
けれど、昨日、Forrester ResearchのJeremiah Owyangが、アメリカではTwitter(とiPhoneの組み合わせが)TIMEの表紙にもなったけれど、まだメインストリームの人達は使い始めていないと嘆いていた(一応、英語Twitter圏ではfollower4万人超の超有名人だ)。
ようは規模の問題なんじゃないか、というのが私の意見だ。
気遣いの検証
そうそう、それからもう1つ(One more thing)。
文化的な違いもある。
日本だけではなく英語圏にもそういう人はいるにはいるが、
自分の意見と違う意見を持っている人がいると、感情的に個人攻撃をする人が日本では目立つ気がする。「有名税」という言葉で片付けて個人を攻撃するのは卑怯なやり方だと思うし、その上、いい逃げならなおさらだ(と、いいつつ、このブログでコメントを受けても、WWDCが終わってしばらく、たぶん、来月くらいまでは、私もコメント返しできない可能性が大きいが)。
「へー、そういう風に考えているんだ。俺はこう思うけれど」というのが普通であって、
世の中、1つの事柄でも、いろいろ見方があるのは自然なこと。
自分の意見と違うからといって攻撃するのでは、健全な議論が進まない。
そして、日本で、そっち方面に議論が言ってしまいがちな、もう1つの原因が、
大勢の人の「冷やかし」があると思う。
この「冷やかし」が、「割れ窓理論」でいうところの「割れ窓」なり「NYの落書き」になってしまうんじゃないか。
それでいうと(と書いた瞬間、この記事がさらに途方もなく長くなりそうな予感がしてきた)、
「情報デザイン」の問題もある。
(そうだ、最初、この話しを書こうと思っていたことを今、思い出した)。
私は日本のメーカーが、スペックシート文化に押しやられて「ただ機能を盛り込んだ」という段階で満足してしまって、本当に「人々が使う気になる」機能や製品を生み出せなくなっていると、よくレクチャーしているのだけれど、それがIT企業も同じ。
ただ、日記機能やメッセージ機能を搭載したレベルで満足してしまっていて、
実際に、それを人々が使い始めたら、どう感じるか、どのように広がっていくか、といった部分まで踏み込んだ議論が行われていないんじゃないかと心配している。
アメリカのTwitterやfacebookあたりは、その当たりも気を使っている。
人と人が、必要以上に接触すれば、摩擦が起きやすくなる。
バーが混み合ってくると喧嘩も起きやすくなる。
Twitterは、その当たり、狙ってやったわけではないかもしれないが、
ちゃんと必要以上に、余計な情報が、余計なところまで見えないように、
いろいろうまく調整、実験して、いい雰囲気をつくりだそうと努力しているのを感じる。
また、私がこの手の話しをするときに、比較対象として出すのがmixiの「踏み逃げ」とfacebookの「Poke」の話しだ。
mixiの足跡機能は、人数が少なかった頃は、いろいろといい効果をもたらしていて、
私も応援していた機能だし、「悪い機能」だと言うつもりはない。
実際、笠原さんが、まだ私ごときでもインタビューできていた時代には、
本人に向かって「いや、あしあと残してもいいですよ」と熱弁したのも覚えている。
しかし、mixiの客層が変わってきた段階で、きっとあし後機能は残すにしてもデザイン的変更を加える必要があったんじゃないかと思う。
例えば10件までしか見れず、遡れないようにする、といった変更だ。
つまり、あえて「情報の漏れ」、「ノリシロ」的要素をつくりだすことで閉塞感を緩和することだ。
Twitterは、最初のうちは意図していなかったと思うけれど、最近では、この「情報の漏れ」や「緩さ」を非常に意図的にうまく活用していると思う。
これがないと、follower数たかだか2700人でも閉塞感を感じてしまう。
私レベルの規模でも、多いときには「@nobi」のリプライが数時間で1画面を超えるときがある。
それら一つ一つ返事していたら、Twitterは精神的苦痛になるので、Twitterのわざと情報漏れがおきやすいデザインに甘えて、それほど積極的に情報を探さずに、適度に情報の見落としをしている。
これがあるからTwitterは使いやすい。
同様に、mixiではテキスト重視の、重苦しいコミュニケーションを重視していることもあり、
「足跡を残したのに、日記にコメントを残さない」と怒る人がでてきてしまったり、メッセージ送ったのに返事が来ない、みたいな、やりとりがでてきている(最近はなくなったんだろうか)。
これはマイミクの数などが増えて、狭さが顕著になれば、加速していくはずだ。
これに対して、facebookが気楽なのは、例えばpokeのような機能があること。
これは、例えば私がdrikinをpokeすると、drikinのところに「nobiからpokeされました」という信号が届くだけ。
言ってみれば、パーティー会場、久々にdrikinにあって話しがいたいけれど、まわりに大勢人がいて、なかなか話しが出来ない。この後の予定もあってそろそろ去らなきゃならない、といったシチュエーションで、drikinにウィンクなり、ジェスチャーで「今回、話すの無理そうだね。また今度ね。元気で」と目で伝えるのに似ている。
メッセージ機能で「ご無沙汰しています、お元気ですか?季節の変わり目で、体をこわしやすいですが」とやってしまうと、それはそれで素晴らしい文化だけれど、受け取った側も「ああ、忙しいけれど、相手が50行送ってきたから、せめて30行くらいのメールを返さないと」というプレッシャーに追われてしまう(このプレッシャーを与えないためにも、送り手は「お忙しいでしょうから返信は不要です」くらいを加えるのが「粋」だと私は思う)。
これに対して、Pokeだと。
「お!気にかけていてくれるんだな」っていうのが、伝わって、精神的な負担も与えない。
実は日本人はきめ細やかで、気遣いがあってとよく言うけれど、
最近の私はあまりそうは思っていない。
日本人は、気遣いがある人は確かに多いけれど、そういう気遣いの中に、
相手からの気遣いbackを求めている人も多くて、これが精神的負担になりやすい。
その点、アメリカ人などは、相手に気を使わせないように、
"わざと"「俺はぜんぜん気を使わない奴だよ。だらしない奴でごめんな、その代わり、お前も俺に気を使わずに楽にしていろ」と言葉にせずに目で伝えている人が多い気がする。
ここいらへんも、もしかしたら、冒頭の話しに絡んでくるのかもしれない。
まあ、ちょっとあまりにも長くなり過ぎたので、ここいらへんで筆を置こう(キーボードから手を離そう)。
つづきは、飛行機の中で書けるかもしれないし、WWDC後のドタバタが終わった来月行こうになるかもしれないけれど、せっかく始まったおもしろい建設的な議論が、これからも広がっていけばと思う。
*1)アメリカでは今や有名な媒体が、取材しようとして
「英語苦手だし、別に日本の売り上げにも貢献しないし断っていいよ」なんていうことも起きているんじゃないかと思う。