The art of uselessness | 無用の美学
The English version of this article is found on my Medium.
10月、東京の広域で開催していたイベント、DESIGNART 2024。
今回、私は欧米メディアを含むプレスツアーでオフィシャルガイド役として、プレスバスツアーに随行して、海外プレスに東京の街の情報や日本のクリエイターの背景情報を説明したりしていた。
デザイン・イノベーション・ファーム、Takramの展示「Takramのプロダクトデザインとその裏側」で、海外メディアの人たちがTakramがつくったLOVOT専用の椅子を見て盛り上がっていた。GROOVE X社のロボット、LOVOTは家族やペットのように一緒に暮らすことを目指して作られた人気のロボットだ。これを欧米メディアの人々に説明すると、彼らは椅子以上にLOVOTそのものに大きな興味を示し始めた。特に、私が褒め言葉のつもりで「役に立たないロボット」と説明したところ、これが大ウケしたようで「only in Japan」と笑っていた。私もまさに「only in Japan」だと思った。ただし、良い意味で。
LOVOTは正式発表前にも見せてもらっていたが、生みの親である林要(かなめ)氏自身が、開発当初から「役に立たないロボット」を目指していると説明していた。
無価値の価値
ロボットというと、いかに人々の役に立つか、どれだけ便利な機能を詰め込めるかを考えるのが一般的かもしれない。しかし、LOVOTは違って、家族の役に立つような機能は一切ない。それどころか忙しい時に急にすり寄ってきて抱っこをねだったり、仕事の邪魔をしたりする。
このアプローチの特異性は、欧米のロボット観と比較すると余計に際立つ。欧米のSF映画に登場するロボットの多くは、労働力や兵器として描かれ、いわば道具や奴隷の延長線上に位置づけられることが多い。一方、日本の代表的なロボットと言えば、鉄腕アトムやドラえもんだ。彼らは確かに人間を助けることもあるが、同時に家族の一員として、必ずしも実用的とは言えない側面も多分に描かれている。
文化人類学者たちは、この違いを日本のアニミズム的な文化背景と結びつけて解釈する。日本では古来より、道具や自然物にも魂が宿ると考え、時には山にある一つの岩にさえも畏敬の念を持って接してきた。このような精神性は、物との関係性において、単なる機能や実用性を超えた次元での交流を可能にしてきた。
無用を重用する文化
日本には古来より「無用の用」という考え方が存在する。茶道における「余白」の価値や、禅の「無」の思想は、一見無駄に見えるものの中に深い意味を見出してきた。神道のアニミズム的な世界観から生まれた針供養のような習慣は、物との情緒的な関係性を示す好例だろう。このような精神性は、現代のテクノロジーとの関わり方にも確かな影響を与えている。
「役に立たない」ということは、見方を変えれば有用/無用という評価の基準から解放されているとも言える。現代社会では、あらゆるものが効率や生産性という物差しで測られがちだ。しかし、人間が本当に求めているのは、必ずしも実用的な価値だけではない。
この「役に立たないロボット」というパラドックスは、日本の商品開発の歴史の中で形を変えて存在してきた。ソニーのAIBOに始まり、産業技術総合研究所が開発したパロ、シャープのロボホン、DESIGNARTで開発プロセスを展示中のユカイ工学のQooboなど、日本ではAIBO以降、常にいくつかの癒し系ロボットが存在し、一定の人気を保ち続けている。
この必ずしも実用性を追求せず、感情的な価値を重視する傾向は「かわいい文化」とも密接に結びついており、実用性より感性に訴えかける価値を重視する日本特有の感性の表れと言えるかもしれない。
そうした役に立たないものとの関わりを持てるということは、「人間として心に遊ぶ余裕がある」ということでもある。決して日本人にしかわからないものではなく、他の国でも家族に加えてペットを養っている家庭は少なくないだろう。ただ、面白いのは日本の場合、この愛情の対象が人造物にも及ぶということだ。
コロナ禍を経て、人々の価値観は大きく変化した。効率や生産性を追い求める生活の中で、むしろ「役に立たないもの」との関わりが心の安らぎをもたらすことに、多くの人が気付き始めている。ChatGPTのような AIチャットボットとの会話も、必ずしも実用的な目的だけでなく、感情的な交流を求めて行われることが増えている。
特に若い世代において、この傾向は顕著だ。Z世代やα世代は、ロボットを単なる道具としてではなく、感情を持つ存在として自然に受け入れている。彼らにとって、LOVOTのような「役に立たない」ロボットは、むしろ当たり前の存在なのかもしれない。
未来を生み出す上で見過ごせない無用の美学
大阪大学の石黒浩教授は、この文脈において非常に示唆的な研究を1990年代後半から行っている。人間らしさの本質を探求する彼の研究は、機能性を超えた価値の重要性を示唆している。
同じDESIGNARTのツアーで訪れた乃村工藝社の展覧会「Being 家具が居ること」も、物と人との関係性について興味深い示唆を与えてくれた。この展覧会は、家具を単なる実用品ではない、より豊かな存在として提示している。
3つのクッションがもたれかかったような形をした「dohdoh(ドードー)」という椅子は、一見すると座り心地が悪いようでいて、クッション同士の角度を調整することで自分だけの座り心地を探る楽しみを提供する。「i i i(イーイ)」という長い1本足を持つ小さなテーブルは、その不安定さゆえに、物を置く際に一つ一つの特性を理解し、探り探りそっと置く必要がある。「sorosoro(そろそろ)」という照明は、紐を引っ張ると崩れていた棒状の照明が垂直に立ち、ゆっくりと光り始め、倒すとまるで力が抜けたように崩れながら消えていく。
「家具には使われている時間とおなじくらい使われていない時間もある。人間が頑張ったり休息したりするように、頑張ったりサボったりする家具がいたら。」というコンセプトは、日本における「不便益」の概念を体現している。こうした概念が欧米にないわけではないが、繊細な気遣いでこれを作り込むのは日本人の得意分野の1つだろう。
西洋社会が直面している様々な課題——効率至上主義がもたらす精神的な疲弊、テクノロジーの非人間化、そして深まる孤独——に対して、日本のロボット観は新しい視座を提供する可能性を秘めている。「役に立たない」ことの価値を認める文化は、効率や生産性のみを追求する現代社会に対する、静かだが力強いアンチテーゼとなりうる。
実際、欧米でも近年、精神的な豊かさや持続可能性への関心が高まっており、「スロー・ライフ」や「ミニマリズム」といった動きが注目を集めている。その文脈において、日本の「無用の用」という考え方や、LOVOTのような存在は、テクノロジーと人間性の新しい関係性を示す先駆的な例として捉えられ始めている。
これからの社会において、テクノロジーはますます私たちの生活に密接に関わってくるだろう。しかし、その発展の方向性は必ずしも効率化や省力化だけではないはずだ。LOVOTなどが体現する「無用の価値」は、効率や利便性を超えた新しい豊かさの形を模索する現代において、きわめて今日的な意義を持っている。それは単なる「Only in Japan」の好奇の対象ではなく、Post-Human Centric時代におけるテクノロジーと人間性の調和という、グローバルな課題に対する1つの答えとなりうるのだ。
この記事は元々、林信行のmediumに英語で書いたものです。Medium上ではかなり好評で、多くのコメントをもらったので日本語版の記事も用意しました。
補足:
西洋におけるロボットの原型は「ゴーレム」とされることが多い。額に「真理」を意味するヘブライ語を刻むことで命を吹き込まれたゴーレムは、ユダヤ人コミュニティを守護する存在として創造された。しかし、この物語は同時に、人間が創造主の領域に踏み込むことへの警告でもあり、制御を失うと危険な存在となり得る両義性を持っていた。主人に忠実に従う完璧な奉仕者として描かれたゴーレムと、その「創造主と被造物」「支配者と奉仕者」という二項対立的な関係性は、その後の西洋における人工的な生命やロボットを巡る物語の原型となった。この二項対立が原因かは定かではないが、西洋におけるロボットの扱いには暴力的な要素が少なくない。例えば、Boston Dynamicsのロボットのデモ動画では、開発者たちが「これは人間ではないのだから、こう扱っても構わない」と言わんばかりにロボットを蹴ったり足を引っ掛けたりする様子が映し出されるが、これは日本の視聴者からは極めて暴力的に映り、一部には拒否反応を引き起こしている。