便利はいい、でも豊かになったのか?
academy hillsから送られてきた書類。
返送用の封筒の「梅」の花を見ていて、ふと気がついた。
「切手って82円だっけ?」
どうやら4月から消費税増税でそうなるらしい。
つまり、「返送が月をまたいでも大丈夫ですよ」という言葉のない気遣いの現れなのだ。
そして、返送する相手の心をちょっとなごます梅の花。
「おもてなし」は何もホテルとレストランの専売特許ではない。
日常のあらゆるところに自然と出てくるものであり、それを感じとって愛でるのが日本人の粋だ。
そして、最近ではそれを愛でる日本人のハートを持った人は、日本だけではなく世界中に誕生し、
日本を訪れては、我々が当たり前と見過ごしている小さなこと1つ1つにいたく感動している。
このことをFacebookに投稿したら、こんな返事があった。
「質量とサイズなどで切手料金シールが自動的に出力される機械が総務に」あって、それが使われているというのだ。
20世紀を通し我々は「便利さ」を「豊かさ」の象徴と、はきちがえた信仰をつづけてこうした世界をつくってきた。
先日、英語ブログでも触れた横浜美術館の展覧会「魅惑のニッポン木版画」展の最初の展示室を覗くと、江戸時代の人々が、最新技術を彩り豊かで味わいのある生活を生み出すために活用していたかを伺い知ることが出来る。
これに対し、今は技術が文化と逆の方向を向いていると感じることが多い。
常にそうだったわけではない。
アップル社は1984年に発表したMacintoshで、DTPという技術を世に広める。
これは今日のほとんどの出版物で使われている技術であり、
ある意味、アップルは今日のグーテンベルグとも言える。
スティーブ・ジョブズも、いくつかのインタビューで、そうしたことができたのは、自分が大学でカリグラフィーなど技術以外のことにも関心を示したことが影響していると答えている。
だが、一方でこのDTPが欧文の出版物から豊かな文字表現を奪った側面もある。
きれいな装飾の絵本などで使われていたスウォッシュ文字やカーニング、リガチャーと言った活版印刷時代に築かれた豊かな文字表現の文化がDTP化によって出版物から消え去ったのだ。
しかし、アップルやアドビ、マイクロソフトといった会社はその状態を放っておかなかった。
スティーブ・ジョブズの不在時代も、これらの会社のエンジニアらが技術によって豊かさが失わされるなんていうナンセンスを起こしてはいけない」と必死で頑張り、今日では多くのフォントに、こうした活版印刷時代の文字表現をする技術が、かなり盛り込まれるようになった。
翻って、これは日本だけではないかも知れないが、技術の他の領域では、便利さと効率ばかりを宣伝して、それによって失われる「豊かさ」を忘れさせ、「便利だけれど粗末」、「便利だけれどみすぼらしい」をはびこらせてしまっているものも多いのではないかと危惧している。
しかも、多くの日本人は、一度、「便利」におかされると、粗末を当たり前のこととして身体で受け入れてしまい、そこを基準に発想をしてしまうような気がしてならない。
技術には、それまで一部の人しか享受できなかった「豊かさ」をインスタント化して、より大勢に広げる側面がある。それは、それでいいことだ。
問題はその後だ。
同じコストで、かつての豊かさを取り戻す、あるいはそれを超える努力をする人がいれば、これまで我々が築いてきた文化は前進する。逆に、インスタントな状態に安住してしまうと、文化はむしろ後退してしまう。
文化を前進させつつ、それを大勢に広げて行くことは技術者だけではできない。
そうした文化の良さを深く知る人がいて、その人の主導の元、技術者に対して「この品質でないと認められない」といったせめぎ合いをして初めて本当に豊かで優れたものが誕生する。
それなのに、最近の我々が住む世界は、この議論が少々欠けているような気がしてならない。
(いや、クリエイターと呼ばれている人達の世界では欠けてないように聞こえるが、大きな影響力を蓄えてきた技術の側の人達の世界では、ほぼ皆無なので、この2つの別世界がつながれば問題は解決するのかも知れない)。
もう1つ課題がある。
この文化の「根っこ」を失ったインスタントがはこびる社会で育った次世代に、どうやって本来の日本の美を伝え、教えていくのか。
冒頭でも紹介したような「日本の美徳」が意味のないものとは、私にはとても思えない。
ならば、子供たちにそうした「美徳」をどうやって伝えていくのか。おそらく日々の積み重ねこそが大事だとは思うが、豊かな感性を育めるはずの時間を受験勉強と塾に奪われ、家では疲れ果てるかゲームかスマホに没頭しているこの時代、日常で刺激のない積み重ねで本当に価値を継承できるのか。これも重要な問題の1つだと思う。
書くだけ書いたが、私自身が筆無精で、気遣いはしても、それを実行に移せない人間なので自分への反省を込めながら問題提起させてもらった。