レビュー再考
ここのところ、ブログをぜんぜん更新していないことからもわかるかもしれないが、仕事が遅れ睡眠不足の忙しい日々が続いている。
ただ、それは出版社や編集部も同じようで、先週書いたレビュー記事がようやくITmediaに掲載された。
賛否両論があるレビューになることはわかっていたので、
記事が掲載されたら即時、ブログでフォローしようと思っていたが、なかなか掲載されない。
なので、「今日も掲載されないだろう」と思っていた。
朝9時半のメールチェックが最後で、その後、夜中の12時過ぎまでインターネットに接続する機会がまったくなかった。夜中に帰宅して接続したら、いつのまにか記事が掲載されていて、案の定、話題になっていたので、本当は原稿を書かなければならないところ、ITmediaに迷惑をかけないように簡単にこちらでフォローをしておこうと思う。
MacBook Airから見える新しい風景
このレビューを掲載したITmediaさんの勇気は賞賛したい。
リード部分で「林信行氏がMacBook Airに対する思いを織り交ぜつつ、その思想的背景に迫る。」と書いた当たりに、編集者の間での「これをこのまま載せていいのか」というディスカッションがあったことが伺える。当たり前だろう。私も、載せられないなら載せられないで、かまわないとどこかで思っていた。
この記事には、私自身の「レビュー不信」、「スペックシート(&ベンチマーク)文化不信」といった数年に及ぶいろいろな思いを反映したもので、レビューであってレビューではない。レビュー以外のメッセージもたくさん込めたつもりだ。
最近、本を数冊書いたことで、やたらと丁寧に接してくださる人が大勢いる。
それはそれでうれしいが、「先生」などと呼ばれると、違和感を感じてしまう(*1)。
そして、あまのじゃくな私は逆に、何か正反対なイメージのcontroversialなことをやりたいと思ってしまう。そんな中、ITmediaさんにMacBook Airのレビューを頼まれた。
「めちゃくちゃ仕事が溜まっていて、受けられそうにないけれど、もし好きなように書かせてくれるなら」と言ってみたところOKをもらったので好きなように書かせてもらった。
この記事の原点は、5年ほど前、私がMACPOWERという雑誌に出していた企画に端を発するのだと思う。
当時、同誌のアドバイザーで、企画会議にも参加していた私は「レビュー再考」という企画を出していた。この頃からパソコン雑誌は、昔成功した記事の焼き直しばかりになってしまっていて、ちょっとつまらなくなっていると思っていた。
なので、何かそうではないもの。新しい文化を生み出すものや、自分たちが築いてきた土壌を、もう1度振り返る記事がやりたかった。
昔のMACPOWERはBROWSE REVIEWとPOWER REVIEWという2つのレビュー記事で定評があったが、「レビュー再考」は、その目玉記事すらを、もう1度、考え直してみようと問題提起したいと企画したものだった。
なぜかと言えば、ほとんどのレビュー記事は嘘ばかりだからだ。
雑誌にしてもWebにしても、ブログにしても、そもそもレビュー記事というのは嘘だらけだと私は思っている。実際、自分でいくつものレビュー記事を書いていても、嘘だらけだと感じている部分が多かった。
質が悪いのは、ベンチマークテストの結果など、数値化できるものを載せていると、いかにもそれが客観的で公平なレビューだと思わせてしまうことだ。
しかし、数字は、その後の解釈次第でいくらでも操作ができてしまう。
自分でも多くのレビュー記事を書き、その度に悩んできたこともあり、私はだんだんと「客観的」を装うレビューが、悪いことに思えてきた。
例えばあるベンチマークテストで、機種Aの方が機種Bよりも20%速いという結果が出たとしても、「機種Aは、機種Bと比べて20%も速いという結果が出た」というか「これだけ価格差があるにも関わらず20%しか差が出なかった」と言うかで、製品の印象がぜんぜん違ってくる。
私は「この世の中には客観的なレビューは存在しない」と思っている。
それだけに、下手に「客観風」を装うよりも、「おれはめちゃくちゃエコヒイキな人間で今から偏ったレビューを書く。そのかわり、他の誰も書いていないような視点も盛り込んでいるので、共鳴してくれた人だけ勝手に共鳴してくれ」という属人的なレビューの方が正直に思えてしまう。
もし、「レビュー再考」の記事が実現していたら、私がその中で、理想のレビューの1つとしてあげようとしていたのが、多視点的レビューだ。
つまり1つの製品を、視点の異なる大勢の人に触ってもらい、それぞれの視点で一言言ってしまうことだ。
実際に一部のパソコン雑誌が、これを行っているが、これが素直な多視点的レビューになればいいが、予定調和的になるとおもしろくない。
ただ、編集者という人間は、「この製品のレビュー、他の3人の方がいいこと書いているんで、〜〜さんは、ちょっと悪い点も指摘してくださいよ」といった具合に「調整」をしがちなものだ。
こうなってしまうと、とたんに「嘘」が入ってしまい、おもしろくなくなる。
実はこちらもITmediaで書かせてもらった記事だが、これは多視点的レビューを、思いっきり稚拙な方法で実現したものだ:
トップブロガーたちによる「新MacBook Pro」速攻&即興レビュー
多視点的レビューの最終的な目的は、読者のうちの5%か10%くらいにヒットするかもしれない「視点」を届けることだ。
あとは、その視点をどのような形でパッケージ化するかが問題で、客観的レビューを装ってパッケージ化する方法が一般的だろうが、上の記事で意見を求めた人は、圧倒的にMacユーザーが多くて、およそ客観性を演出できる状況ではなかった。
そのため、ならばいっそ「お馬鹿な読み物」風に仕立てた方が読みやすいかな、と思ってあのような形にした。
私はまた、世の中のすべての人に相応しい製品はないと思っているし、世の中のすべての人を満足させるレビューも存在しないと思っている。
パソコンにめちゃくちゃ詳しい人と、初心者の人とでは「高い」、「安い」の判断基準も違えば、「速い」、「遅い」の基準も違う。
ただ、その一方で、すべての読者は、すべての記事が自分のために書かれたものだと思い込んでいることも理科しいている。
偏見に満ちた偏ったレビューの長所は、記事の内容に共鳴できなかった人は「何を言っているんだコイツ」と思って記事を読み飛ばしてくれることだと思っている。
例えば雑誌であれば「バカバカしい」と言ってページをめくってくれる。
ところが、Web媒体だとここが難しいところのようだ。Web媒体だと、熱心な読者、共鳴できない読者が、自分には相応しくなかった記事に対して、ソーシャルブックマークなどで細かくコメントを書いてくれる人が大勢いる。
ただ、これがソーシャルブックマークのいいところで、「+」と思った記事でも、「ー」と思った記事でも、とりあえずブックマークが増えていけば、それだけ読む人も指数関数的に増えていくので、もしかしたら、これはこれでありがたいことだとも思っている。
この記事を機会に、本当に時代が求めているレビューは何なのかの議論が活発かすればいいな、と思う。場合によっては複数のブログ間で「レビュー再考」の議論が行われれば、それはそれで私の本望だ。
まだ寝る前に仕上げなければならない仕事があるので(@3:51am)、書き足りないことはたくさんあるけれど、ここで議論を打ち切りにしようと思う。
ただ、今から3:55amまで、「レビュー再考」の記事で議題にしようと思っていたことを、箇条書きにするので、もし、ブログで取り上げてくださる方がいたら、ぜひとも以下の点についても考慮していただければと思う。
そうそう、実は、この「レビュー再考」のもう1つの派生系として、MacPeopleという雑誌で行っていたbossa macという記事では、コード名「偏見レビュー」というのをやっていた。
いわゆる属人レビューで、ややフェティッシュに近いレビュー記事だ。
「このアプリケーションにはこんな特徴がある。それは普通の人にとっては、どうでもいいような細かいところだが、自分にとってはそこがツボだった。」というのを取り上げて、製品の全体的仕様も解説も一切なし、偏愛している機能についてだけ、徹底的に熱く語ってもらうというものだった。
お気に入りの企画で、何回かの連載の中で、最新ソフトが必ずしもいいソフトではない(場合によって、人によっては、わざわざ新バージョンを買った後でも、旧バージョンを使い続けている、といった新たな価値観を提示できたと自負している。漫画家のいしかわじゅんさんにはご迷惑をおかけしてしまいました。スミマセン!でも、B型だから、もしかしたら忘れてくださっているかな?と都合のいい期待(笑) )。
ここまで偏った書き方だと、さすがにどんな読者でもヒットしない人は読み飛ばしてくれたので、そういう意味では潔かった。
今回のITmediaは、むしろ平々凡々な普通のレビュー記事(これから執筆)を先に掲載した後に、前編がくれば、もう少しおとなしい評価だったのかもしれないが、ついつい自分で長年の思いを果たしたくて、前編が先になったのが、失敗と言えば失敗であり、(ビューを稼げたという意味では)成功だったのかもしれない。
他にも、まだまだ議論すべきトピックがあると思います。
以下は、トピックとして書きたかったけれど、時間切れでちゃんと書けない項目。
箇条書きにしておきます:
ーXbenchのような専用ベンチソフトなのか、それともアプリケーションの動作でベンチをとるべきなのか
専用ベンチソフトの○:アプリケーションベンチではわからないような、CPU、メモリ、ディスクといったハードウェア要素の個別性能を視覚化できる(ただし、その後の解釈は属人的)
アプリケーションベンチの○:CPUが20%高速と言っても、普通の人には、それが得なのかどうなのかわからない。それよりは旧機種で10秒かかっていたPhotoshopのフィルタ処理が約半分の時間で処理できた。試行錯誤の回数が増え、作品の作り込みがしやすくなった、という「使用価値」の評価の方が、普通の人にとってはわかりやす
ー評者の個性を出すべきか、出さないべきか
私の考え、レビューにしてもニュースにしても、客観的なものは一切ありえない。下手に「私の視点は客観的です」と装うよりも、「私の視点は偏見に満ちています。だから注意して読んでくださいね」というのを演出としても出した方が、総和では満足できる人が多いのではないか。
また「嫌い」と「好き」がきっぱりわかれて「感情の振幅」は大きくとれるのではないか(書き手としては、印象に残らない記事よりは、その方がよっぽどうれしい)。
ー客観的レビューは本当にありえないのか?
実は米国の雑誌、Consumer Reportなどのレビュー記事は、かなり客観的に思え、読んでいてもおもしろい。
洗濯機にしても、掃除機にしても、テーマとしてとりあげた全製品に対して、半端ではない数の科学的な実験をやって、性能を評価している。
例えば冷蔵庫にしても数十項目のテストを行っている。しかも、テスト手順もきっちりとルール化されており、記事中で、そのルールを公開している(つまり、そのルールに従って、記事に出ていない旧製品との比較もできる)。
ここまでできれば、多少は「客観的」と唱ってもいいかなとも思える。
ただし、すべての人が気になっているポイントをカバーしきれているとは思えないし、最終的にどんなテストを残すかは、やはり主観が働いてしまう。
そして、残念ながら日本の出版社には、これだけのちゃんとしたレビューをするための予算や、人的リソースを持っているところはない。
昔、米国のZDNetはZDNet Labsというのがあり、ここがルール化した方法でベンチを行っていた。
日本でもいくつかの出版社が、これを目指したが、やはり無理だった。
ーいつだったか、このブログにも書いたが、いわゆるマスメディアのレビューには、レシピのようなものがある。
製品写真がカップ2杯
ベンチマークの結果が大さじ100g
製品の特徴紹介が100g
製品のいいところの紹介が大さじ1杯
製品の悪い点の指摘が小さじ3杯
媒体ごと、ライターごと、あるいは編集者ごとに、ピリ辛系だったり、甘口系だったりとさじ加減が違うので、数字はデタラメだが、なんとなく、レビュー記事をどれくらいのさじ加減で落ち着かせるかがだいたい決まっている。
だが、最終的な製品の評価の部分は、最終的にライターの意向や媒体の意向でいくらでも変えることができてしまう。
ー MACPOWERから、さらに遡ること数年、昔、「HyperLib」というCD-ROM雑誌があった。
実はここで実現したかったのが、ビジュアルベンチという企画だった。
Macの新機種が出るたびに、読者の8割が持っているであろうアプリケーションの動作をビデオで撮っておき、ムービーデータベース化する、というものだ。
ムービーで動作速度を確認した後、自分のマシンんで同じ操作をすれば、自分が持っているマシンとの比較ができる。
ただ、ここでもどのような操作をすればいいのかや、OSのアップデートがあったら、その度にベンチを取り直すのかなどが議題になっていた(といっても、やろうといっていたのは元編集長の飯田氏と私の2人だけ。撮影やムービー化するにしても、この2人以外からの協力はえられそうになかった。途方もなく時間がかかる作業を、ほぼボランティアでやらなければならなさそうだったので、最後までできなかった。もし、あれが実現していたら、Mac IIviとMacBook Airの速度も比較できたのではと思うと、ちょっと悔しい(最後の議論では、製品が発表された直後のOSバージョンでムービー化するのが、一番、公平だろうというところで議論が落ち着いていたーー>個々のマシンは、おそらく出荷時点のOSに最適化されているから、という根拠)。
ーもし、世の中に客観的レビュー、最良のレビューの方程式があるのなら
すべての媒体のレビューが同じないようになってしまいかねない。
気がついたら4:12amを回っていたので、本当にここで打ち切ることにしよう。
ただし、もし、「レビュー再考」の議論が、他のブログでも行われるようになったら、technoratiで検索して、コメントを残しにいきたいと思っている(週末か来週の水曜日以降になってしまうかもしれないが。実は来週の月、火と福岡にある大学で講演を行ってくる。それまでにすべての原稿をしあげねばならず、この後もブログの更新は難しそうだ)。
*1)私の中での「先生」と呼ばれる人のイメージは、さんざん自分で売り込んでおいて、編集者に「それじゃあ、お願いします」と頼まれると「よし、それじゃあ、仕方がない。書いてやろう」と答え、ベンチマークテストはすべて編集者に取らせて、その結果だけを見て、うまく文章をつなぎ合わせている人といったイメージがある。もしかしたら、私がレビューを書くときには、なぜか自分で取るハメになっていたので、そのジェラシーかもしれないが。私は歳だけはとっていても、「先生」になったつもりも、なるつもりもあまりない。できれば、みんなで一緒に考える場や機会をつくっていきたい、というスタンスだ。
雑誌にしても、Webにしても、ブログにしても、記事を読むという行為は、つまるところ、自分の内側にある考えや視点、共鳴を引き出すための行為に過ぎないと思っている。
特に私は先生でもなんでもないので、書かれたことをすべて鵜呑みにしてしまわれると困る。もちろん、できる限りの事実は書くつもりだが、書いた内容をきっかけに、自分で考えてもらって初めて、何かが生まれるのだ。それは脳内のシナプスとシナプスの結びつきに似ている。
追記:
ーパソコンは道具となりつつある。筆記具としても使われ、楽器として使われ、電話として使われる
ーペンのレビューに「このペンのインクでは〜の成分が他社より○%多い」といったことが書かれるだろうか。おそらく、それよりは書き心地や、その裏にある思想、背景が語られるだろう
ー例えばアプリケーションベンチをする場合、1秒速い、2秒速いという指標をどう噛み砕くべきなのか>> おそらくテスト用のデータを配らないことには意味がない。
ー昔はExcelで複雑な計算をしただけでも、CPUによって数秒の差が出たが、今日ではそれが難しい。ワープロもしかり。そうなると結局、PhotoshopやFinal Cut Pro? レビュー対象のマシンが、それらのソフトのサポート対象外のばあいはどうすればいいのか。