英語で書くと言うこと
前のエントリーのDan Gillmorで思い出したが、最近、私の記事もいくつかasahi.comに掲載されている。
といっても、私の日本語ではない。米国のWiredに英語の記事として提供したものが、Hot Wired用として日本語に訳され掲載される。それをasahi.comが掲載する、というパターンだ。
Wiredで記事を書き始めて、つくづく不公平だと感じたのはその反響の大きさだ。
これまで日本の雑誌でも、年に数回は「これはすごい原稿がかけたかも」という手応えのあるものを書いてきたと思う(既にMACPOWERに最初の原稿を書いてから14年近くになる)。
「おそらくこれを書くのは世界でも自分が初めてだろう」と喜ぶこと、「この角度からの分析はまだ誰もやっていないはず」と有頂天になることもままあった。
でも、それらの記事が読まれているのはあくまでも日本だけ。
日本の展示会でも、私はライターとして何年間、どういった媒体で活動してきてこんな人もインタビューしたことがあるといったことは説明しているが、海外の展示会では、さらにそれがどんな媒体かまで説明せねばならないし、くどくど説明したところで、相手もパッとしないのが正直なところだ。
だが、最近、Wiredに一連の英語記事を書き始めてから、状況が一変し始めている。
GenさんのBLOGで紹介してもらえたのもうれしかったけれど、それ異常に驚いたのは、これまでインタビューが取れないかとお願いしていたような会社の重役から海外の他のメディアまで、様々な方々から次々とメールが送られ始めてくるのだ。
中にはあの記事の裏にはこんな秘密があるはずだ、という独自の分析を送ってくれる人、私が日本在住とは知らずに取材に来てくれというメールを送ってくる人もいる。
実は、最初の記事を書き始めたときからメールが送られていたようだけれど、ものの見事にすべて迷惑メールとして仕分けされていて、今まで気がつかなかった。
実はWiredには、今回、記事を書き始める前にも日本の情報ソースとして何度か登場したことがある。
ここで不条理に感じたのが、日本の雑誌でも、それなりに頑張って記事を書いてきたつもりなのに、そんなに大したこと言っていないのに、Wiredに載ったとたん、「すごいね!Wiredに載っていたね。」ということになる。
これでは日本の媒体だけに記事を書く他の人々やこれまでの自分が報われない気がする。
日本だといい仕事をしたときでもそれをじっくり味わう間もなく時間が過ぎ、次に仕事に追われる日々が始まってしまうのも残念。
もっとも、論文などの発表が絡む研究者とかも、同じような悩みを持っているのかも知れない。
といっても、私の日本語ではない。米国のWiredに英語の記事として提供したものが、Hot Wired用として日本語に訳され掲載される。それをasahi.comが掲載する、というパターンだ。
Wiredで記事を書き始めて、つくづく不公平だと感じたのはその反響の大きさだ。
これまで日本の雑誌でも、年に数回は「これはすごい原稿がかけたかも」という手応えのあるものを書いてきたと思う(既にMACPOWERに最初の原稿を書いてから14年近くになる)。
「おそらくこれを書くのは世界でも自分が初めてだろう」と喜ぶこと、「この角度からの分析はまだ誰もやっていないはず」と有頂天になることもままあった。
でも、それらの記事が読まれているのはあくまでも日本だけ。
日本の展示会でも、私はライターとして何年間、どういった媒体で活動してきてこんな人もインタビューしたことがあるといったことは説明しているが、海外の展示会では、さらにそれがどんな媒体かまで説明せねばならないし、くどくど説明したところで、相手もパッとしないのが正直なところだ。
だが、最近、Wiredに一連の英語記事を書き始めてから、状況が一変し始めている。
GenさんのBLOGで紹介してもらえたのもうれしかったけれど、それ異常に驚いたのは、これまでインタビューが取れないかとお願いしていたような会社の重役から海外の他のメディアまで、様々な方々から次々とメールが送られ始めてくるのだ。
中にはあの記事の裏にはこんな秘密があるはずだ、という独自の分析を送ってくれる人、私が日本在住とは知らずに取材に来てくれというメールを送ってくる人もいる。
実は、最初の記事を書き始めたときからメールが送られていたようだけれど、ものの見事にすべて迷惑メールとして仕分けされていて、今まで気がつかなかった。
実はWiredには、今回、記事を書き始める前にも日本の情報ソースとして何度か登場したことがある。
ここで不条理に感じたのが、日本の雑誌でも、それなりに頑張って記事を書いてきたつもりなのに、そんなに大したこと言っていないのに、Wiredに載ったとたん、「すごいね!Wiredに載っていたね。」ということになる。
これでは日本の媒体だけに記事を書く他の人々やこれまでの自分が報われない気がする。
日本だといい仕事をしたときでもそれをじっくり味わう間もなく時間が過ぎ、次に仕事に追われる日々が始まってしまうのも残念。
もっとも、論文などの発表が絡む研究者とかも、同じような悩みを持っているのかも知れない。