テレビの明日は「暗黒時代」?
以前に予告していたテレビについての話しを...
その前に、まずちょっとSpiderについて。
前に書いたSpider Zeroの記事は、それなりに注目を集めたけれど、
読んだ人からよく受ける質問がある。
「それってソニーのType Xが先じゃないの?」というもの。
確かにただ録りだめするだけ、という製品はこれまでにもあったのだけれど、
SPIDERが、それらの機械と決定的に違うのは、番組1つ1つ、CMの1つ1つに、番組名はもちろん、出ている人や使われたBGMといったものまで、あらゆる情報がネット経由で提供される。
このため「この人が出ているテレビ番組」、「このアイテムの出てくるテレビ番組」と内容から見たい番組を探せること。
これまでの全録が、ただ数十本のラベルの張られていないビデオテープに個々のチャンネルを録りだめしているだけの存在だとしたら、Spiderは、録画した番組1つ1つに、細かな検索しやすいタグを加えて、自分専用の動画共有サイトにアップしているような感覚。だから、見たい時に、見たい番組を、見たいだけ見られる。
私の場合、時間ができてテレビの前に座るときというのは、おもしろい番組が1つもやっていない時間帯であることが多かった。それだけにSPIDERを使い始めてからは、リアルタイムの放送は、たまにニュースやテニスなどスポーツ系の番組をみるくらいで、滅多に見ず、いきなりSPIDER経由でテレビを視聴することが多い。
SPIDERが、ただの全録の先にある進化であることは麻倉さんが非常にうまく語ってくれている。夏野さんの「SPIDERだと、テレビを見られるときに、1週間で次々に番組が流れていっている中から、一番いい番組だけをつまみ食いできる感覚が楽しいんです。」という言葉もSPIDERの魅力をうまく表していると思う。
PTPのサイトに掲載された4つのインタビューは、SPIDERの宣伝だけ、なんていったケチなことを言わず、いずれも、これからテレビ・放送文化をどう考えたらいいかまで踏み込んだ内容となっているので、ぜひ一読してもらえれば幸いだ。
「SPIDERとは何か?」
このインタビューで、いろいろな方の話しを聞いているうちに、私も、これからのテレビについて、ひとこと言いたい気持ちになってきた。
一番、気になっているのは、「地デジ」は本当に歓迎すべきものなのか、ということ。
できれば、何事もポジティブに可能性を議論したいというのが私のスタンスだけれど、
今の地デジには魅力に感じられる部分が非常に少ない。
地上アナログ放送の世界では、Spiderの登場で、
一度、体験したら、もう元には戻れないテレビの究極の形を、
大勢ではないかもしれないけれど、少なくとも一部の人は知ってしまった。
でも、2011年から始まる地デジ放送については、
(BSよりはやや画質が落ちるが)ハイビジョンである
ということを除くと、
なんだか難しそうな「ダビング10」というルールで録画が大変そうであるとか、
一体、なんのために必要なの?と思うようなB-CASカードが必要だったり、
と、およそ消費者視線で見て、便利なものに感じられない。
業界は、著作権団体からのあまりに大きすぎる圧力のせいで、
画質以外の点では、消費者にとって、いかに小難しくて、不便にするかの議論ばかりを重ねて来てしまった。
そのせいで、日本の著作権団体と家電メーカーが描く、デジタルテレビの世界は、少なくとも私にとっては、なんだかぜんぜん魅力が感じられない世界。
個人的には、そんな面倒くさいルールでガチガチに縛られた世界に押し込められるよりも、いっそiTunesでテレビ番組を売って欲しいと思ってしまう。
そうすれば、いつでも、どこへでも持ち歩いているiPhoneに転送して、好きな場所で、好きな番組を好きなペースで観ることもできれば、リビングのテレビにApple TVをつないで楽しむこともできる。
アップルのDRMに縛られた世界で、他社のプレーヤーが一切、入る余地はない世界だけれど、一度、パソコンとiPhone(またはiPod)とApple TVを揃えてしまえば、後はすごく簡単だし、余計なルールも一切ない。
まるで一番最初のネットウォークマンと初代iPodのような、使いやすさの違いがある。
家電メーカーの中には、消費者指向で、頑張って著作権団体と戦ってくれているところもあるようだけれど、そういうメーカーのうちの数社で結託して、「消費者の便を考えると、これくらいの規制をかければちょうどいいだろう」という世界観を描いて、録画機器をつくることはできないだろうか。
それで録画できない番組があれば、それはそれでOK。
その代わり、そんなリアルタイムで観るしかない番組は、だんだん見る人も少なくなる、という形になっていく(まあ、それなりに長い時間はかかるだろうけれど)。
いずれにしても、著作権団体が押し付ける、日本独自ルールの、「性悪説」と「まずは著作権団体の存続ありき」の世界観に屈してデジタルテレビの世界観を論じてしまっては、地上デジタル放送に移行する魅力がなくなるだけでなく、これまでの携帯電話業界同様、日本独自仕様にあわせなければならない家電メーカーへの体力的負担も大きくなり、日本の家電メーカーがますます弱体化してしまう気がして心配だ。
パワフルなデジタル技術は、使いようによって、非常にパワフルで便利な道具にもなれば、まるで「1984」の世界のように人々を押さえつけコントロールする恐ろしい兵器にもなりかねない。
例え仲介人に過ぎない著作権団体を中抜きして、コンテンツをつくる人1人1人が、直接、自分がこれまでにつくったコンテンツの権利を管理できるようなシステムだってつくれるだろうし、そこに投票システムを組み込んで、コンテンツの2次利用や3次利用について議論できるようなシステムもできるだろう。
Creative Commonsが目指していたように、コンテンツの中に、著作権情報を埋め込む技術が発達すれば、例えば許諾が得られなかった音楽の部分だけ、他のものに差し替えて放送、といったことも可能になるだろう。
こういった柔軟な放送の2次利用、3次利用は、今日の著作権団体の関与を前提にしたのでは、実現することがない。
どう不便にするかではなく、まず最初は、どう便利にするかを考えて大前提をつくった上で、そこから著作権者が損をしないようにという順番で発想しないと、いいテレビ文化はつくれない、と思うのは私だけだろうか?
ここでは(いちいち裏取りをしていると、この記事も出さないまま埋もれさせてしまうことになるので)話しの単純化のために、「テレビの明日」における抵抗勢力を、漠然と「著作権団体」とした。
実際にはそれだけでなく、他にもいろいろな抵抗勢力や、構造的問題があるのは、わかっている。
伊藤穣一さんはよく「ブログ」は対話といっている。
ここで書いたことは、完成系にはほど遠く最初の一歩でしかない。
みなさんが、このURLで、このことについて議論をするための「お題」だと考えてもらえるとうれしい。この議論は、みなさんがコメントを書き込んでくれることで、初めて形になるのだ。