不幸を呼ぶテクノロジー
メールを10通書き上げたので、ご褒美にブログを書かせてもらおう。
今年の春頃から、すっかり執筆業から講演業とコンサルティング業に鞍替えしている筆者だが、それでもパソコンに向かって書き物をしていることが多い。
現在、唯一の連載で、いつも遅れがちな「Apple's Eye」の原稿を書いていることもあるが、そうでないときは
- プレゼンのスライドをつくっている
毎回、半分以上は同じスライドを使うくせに、講演前日に4〜5時間かけて、オーディエンスにあった構成を考えて順番をやりくりしている
- 電子メールソフトと格闘している
のどちらかだ。トータル時間でいうと、圧倒的に後者が大きい。
パソコンを使い始めの人や、あまりパソコンどっぷりでない仕事をしている人にとってはそうでもないかもしれないが、仕事柄情報のハブになりやすい人間にとって電子メールは、まったくもって不幸のテクノロジーだ。
筆者が利用している全メールアドレスに届くメール数の総数は、1日約4000〜5000通だ。
「多い」と驚かれる方もいるかもしれないが、2007年に急逝されたitojunさんに話しを聞いたところ、彼はこの倍近く受信されていたようだ。
もちろん、すべてが人手によって送られてきたメールではなく、迷惑メールも含めた数だが、'93〜4年頃から同じ、文字数の少ないメールアドレスを使い続けていると、こうなってもおかしくない。
このうち重要メール用として使っているアドレスに届くメール数が1日数百通。
おそらく700〜800通だが、前からそうした方がいいと思いながら、ずっと避けていたのだが、
今年、ついに重い腰をあげてGmailに切り替えたおかげで、目にするメールの数はかなり減った。
ほとんどの迷惑メールは、一度も目に触れることなく迷惑メールフォルダに入り、数週間後には自動的に抹消される。
とはいえ、そうしてフィルタリングされた後でも、1日に読まなければならないメールが100通を下ることはない。
さらに、返事をしたり、カレンダーにつけたり、電話をかけたり、といったアクションを起こさなければならないメールが、1日に最低でも20通はある。
電子メールという無料通信手段の登場で、気軽にコミュニケーションができるようになったことは、多くのいいことをもたらしたが、その一方で、それが蓄積していくと、とんでもなく大きな不幸も招くことになる。
今年だったか、去年だったか、元々はパソコン雑誌だった「月刊アスキー」が「reborn」するといって、ビジネス誌に生まれ変わり、その後、ビジネスアスキーという雑誌に名前を変えていった。
このビジネス雑誌時代の月刊アスキーで、ただ1つだけ今でも印象に残っている記事がある。
「数字で見るなんとか」という連載の記事で、毎日ビジネスでやりとりされている電子メールの本当のコストを探ってみよう、というものだった。
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(この号かどうか自信無しなので注意)
IT度の高い企業だと、みんな後で何か言われても言い訳できるように「とりあえず、いっておきましたよね。みせましたよね」といわんばかりに、上司や同僚をccに入れまくる傾向が強まっている。
こうやって役職の位が上の人ほど、電子メールが雪だるま式に増えていく。
(一説にはマネージャークラスで1日数十通、ディレクタークラスで100通、その上が200通くらいとも言われる。もっとも、これは企業文化のIT度によって違うだろう)。
そして役職が上の人ほど時給が高いとすると、みんなが無料だと思って、やりとりしている電子メールが、会社の人的リソースの貴重なコストのかかっている勤務時間を、深刻に浪費している、といった記事だった(うろ覚え)。
まったく、その通りだと思う。
不用意に上司にCCをしている人は、上司の受信箱がどうなっているかを想像し、CCしたからといって読まれているわけでもなければ、印象にすら残っている可能性が少ないことを再認識した方がいいだろう。人間が1日に脳で処理できる情報量には(きっと)限界がある。
私は1970年代から、プログラムリストの打ち込みや、チャット(今で言うインスタントメッセンジャー)で鍛えてきたタイピング速度があり、そこいらへんの人に負けない速度でタイプできる自信。ノっているときなら、日本語でも話すより早くタイプする自信もある。
それだけに、数年前までは、相手の状況を無視してかかってくる電話が嫌いで、電話をかける前に電子メールやインスタントメッセンジャーで、用件を伝えて欲しいと思っていた。
しかし、今は(インスタントメッセンジャーはいいが)電子メールは避けて欲しいと思うし、送られてきたメールにも電話で返事をしてしまうことが増えた。
というのも、多くのメールは、どうせ、返事をしても、また1通、返信しなければならないメールが増えるだけ、というのが見えている。つまり、本題に入る前のフリに過ぎないことがわかっているのだ。
それに、この受信箱というものが、単純なTo Doリストのように、1件ずつ処理していけば、減っていくというのであれば、まだ頑張ろうという気にもなる。
しかし、実際にはそうではなく、1件のメールを処理した頃には、さらに2〜3件くらいメールが増えているのだ。
これは毎日、延々と同じ道路のドリリングと舗装をさせられているようなもので拷問に近い。
もちろん、こちらも人間。
すべてのメールが憂鬱というわけではないし、書いていて楽しいメールもある。
読者の方などから送られてくるメールも、時間があるときは(できるだけ)もれなく1通1通誠心誠意を返事を書いてきたつもりだし、以前にメールをもらった読者に、こちらから「例の情報、あれわかりましたよ」とか「その後、どうですか?」といった具合に、こちらからメールを送りたいと思っていることもある。
ただ、私にとって、既に電子メールというコミュニケーション手段が、まるで音楽がガンガンになっているディスコの大型スピーカーの真横で、風邪をひいて喉が痛いのに、1時間マイクの壊れた会場で大声で講演して声まで枯れてしまった状態で、耳栓をした友人と話すくらいに無理がある手段になりつつあるのだ。
いや、実は数年前からそうで、だから、一時はmixiのメールに逃げていたが、こちらも一時増え過ぎてしまい(最近ではそもそもあまりログインしなくなってしまった)、Facebokkも同様で、Twitterのメッセージも。結局、分散させても、そちらの手段がいいとわかった時点で、そのチャネルへのコミュニケーションの集中が起きてしまい、本質的な解決にならない(いや、あまり分散させると、今度はあちらこちらチェックしないといけない、という問題が発生してくる)。
いずれにしても、ここ10年のテクノロジーは、検索エンジンにしても、アグリゲーターにしても、人々の便利、効率的、欲しいといった言葉に流されて、人間の能力を超えて、情報を集中させる結果を招き、それによって人間をどんどん不幸にする結果にいたってしまったんじゃないだろうか。
さて、そんな状況の中、希望の光はあるのか?
おそらく来年、中頃くらいまでの間は、これが私の研究テーマの1つになり、nobilog2の中心テーマの1つになるだろう。
でも、いくつかの光明は見え始めている。
(Photo Courtesy of Veroyama。
Creative CommonsのBYライセンスだったので、写真、クレジット入れて使わせてもらったよ>vero)
1つはiPhone、もう1つはTwitterだ。
私は2008年、注目すべき最大のトレンドは、この2つだと思っている。
詳しいことはascii.jpで記事を頼まれているので、その記事をあげてからの方がいい気もするが、
勘のいい人ならわかるだろうレベルで簡単に...
まずiPhone。
電子メールだけに絞って話しをすると、
このiPhoneには、素晴らしいところがいくつかある。
1つ目は、パソコン宛の電子メールがそのまま読めてしまうこと。
それも、メールの最初の数行はメールを開かないでも、受信箱の一覧表示状態で読めてしまう。
メールを「拝啓」で書き始めている相手の場合は効果がないが、相手がいきなり本題からメールに入ってくれている人であれば(あるいはメールの冒頭にサマリーをつけてくれている人なら)、この最初の数行だけでだいたいの用件はわかる。これだけでもかなりの助けになる。
(ついでにメールを開くと同時に、とりあえず相手にメールを読んだことが伝わるしくみがあれば、それだけでも助けになる気がする。相手も「先日送ったメール読んだけれど忙しくて返事できていないだけですか?それとも間違って迷惑メールに仕分けされちゃいました?」かが、知りたいことが多いはずだ。もしかししたらDidTheyReadIt.comが救世主かもしれない)。
そして、もう1つ、実はこれがキラーアプリなのが、
iPhoneから送ったメールには、「iPhoneから送信」という署名が入ることだ。
やはり、人から50行くらいの丁寧なメールをいただくと、
本当は「諸々、了解です。」だけで済ませたいところ、「さすがにそれでは冷たいと、思われる」といった日本人的メンタリティーのスイッチが入って、相手の倍とは言わないまでも、せめて20行くらいは書いて返事をしないといけないかな、という気持ちにさせられる。
ところが、これが例の署名が入ると、状況が変わってくるのだ。
今、大阪行きの新幹線です。
メール拝見しました。
概ねいいと思います。
iPhoneから送信
これまで数分から十数分の時間を奪われていたメールの7割くらいは、
本当はこれで済んでしまう内容なのだ。
iPhoneだと、この必殺のマジック署名という免罪符が、
書き手を日本人的「失礼」の呪縛を解き放ってくれる。
実際にやってみると「あ、メールって、本当はこれでよかったんだ」と、解放された気分になる。
これには同意してくれる人が多くて、中にはパソコンにも「iPhoneから送信」という署名を入れている人もいると聞くが、私は一応は、パソコンからは正直に答えている。
(もっとも、パソコンの前にいても「iPhoneから送信」したことは2〜3回あるが)
もう1つはTwitterだ。
IPhoneを使っても、結局、返答を求める声が私1人をターゲットに送られてきて、
「私が答えないと、相手は永久に答えが得られないかもしれない」という恐怖(!?)が消えることにはならない。
ただ、同じ質問などでも、ディスカッションをTwitterやブログといったパブリックな場で、行われれば、私が答えられない間、誰かが答えをしてくれる場合がある。
そして、後で時間ができてから参戦する私は「私もAさんがいっている通りだと思います。後、あえて付け加えれば、Bということかな」といった議論で済み、ものすごく精神的負担から解放されるのだ。
すみません。上を書くと、「自分のことを書いているのかな?」と思われる方がいるかもしれませんが、特定の誰かについて言っているわけでは「まったく」ありません。
そもそも、相手のメール受信箱がどういう状況かなんて知らないのが、当たり前。
初対面の人に、電子メールの書かれた名刺を配っておいて、「私はメールは読みません」なんて言ったら、頭がおかしいと思われるでしょう。
メールアドレスを人に教えている以上、メールは送られてくるもの。
これは当たり前のこと(迷惑メールが送られてくるのは当たり前じゃないけど)。
問題があるのは、電子メールというしくみ。
庭の木に水をあげるのに使っていたゴムホースを使って、ダムの水を全部放出するような無理さがあるしくみだ。
私だってメールも、なんとかうまい方法があれば、一通一通丁寧に答えていきたいし、
しばらく連絡を取っていない友人に、風流な季節の挨拶や写真でも添えて書きたい気持ちもあるにはある。
でも、仕事柄なのか、性格が問題なのか、あるいはあまりにも長い間、同じ電子メールアドレスを使い続けたことが間違いなのか、今の私はそれがやりづらい状況になりつつある。
ここまで、書いていてハタと思った。
もしかしたら、やっぱり、同じアドレスの使い続けが問題かもしれない。
ころころ携帯電話を買い替える友人がいるが、彼の弁が「すべての人とつながりつづけていくことはできない。電話番号変わったことが伝わらない相手は、縁遠くなった相手で、電話受けられなくなっても仕方ない。また何かのきっかけで交流が再会したら、その時に最新の電話番号を教えればいい」というもの。まったくもってその通りだと思う。
本当はコミュニケーションにも新陳代謝が必要なのに、いつまでも未練たらしく、10年以上も前からの電話番号やメールアドレスを使い続けるという発想がそもそも間違っているのかもしれない。
過去10年のIT技術によって訪れた人間の能力を超えた情報の波。
この問題をなんとかして、ITの便利さと人々が幸せを感じられる豊かな生活との共存を目指すことが、これからのIT業界の使命だと改めて思う。
さあ、朝までにあと返信、50通/画面 × 3画面!