駆け足て見た「伊藤豊雄:新しいリアル」

Happy Holidays!Ho Ho Ho!

Happy Holidays!


と、書きつつ、まだまだ仕事が残っていて、あまりゆっくりブログをしている暇がないので、先日の「みんなの会」同様、やや殴り書き、自分宛のメモのつもりで書くのでご容赦ください(毎度のこと!?)

オペラシティー・アートギャラリーで昨日までの開催していた「伊藤豊雄:新しいリアル」。
ギリギリもギリギリ、初台の駅についたのは午後6時近く。オペラシティーの広場ではパブリックな音楽会が開かれていて、かなりの人だかり。
「見たいな」と思いつつも「新しいリアル!」と自分に言い聞かせて、一路、屋外のエスカレーターで3階へ。
すると、「外の音楽会なんてまったく関係なし」といった感じで、ギャラリーの前にも長い行列ができていました。

ただ、先日、マイミクのチバさんにチケットをもらっていたので、列に並ばずいきなり展覧会場に(ラッキー!>ありがとうございます。土曜日、バタバタしていて連絡せずにスミマセン。実家に行っていました)。


台中メトロポリタン・オペラハウス・プロジェクトの模型はやっぱりすごかった。あと5回くらいみたいな。形がぜんぜん頭の中に入らない。
なんとなく、何をやっているかは理解できても、それが実際にどういうものなのかが、なかなか感覚としてわからないし、いったいあの中にいるとどうなるのかがわからない。
上は穴だらけなのかと思ったら、実は予想以上に面になっていたので、ますます不思議。
雨が降ってくると、その水はどこへいくのか。あの仙台メディアテークをちょっと思わせる、チューブみたいな部分の中のスペースはどうなっているのか...何度も見て、わかったようなつもりで、もう1度、見るのだけれど、今ひとつわかっていない。やっぱり、完成した実物に行ってみたい。

エマージング・グリッドって、なかなかおもしろい。
何かあれと似た発想が平面(紙の雑誌の誌面やパソコン画面)にも応用できないものだろうか。

私は四角、四角した雑誌のレイアウトが嫌で、昔はよく「四角く区切るにしても、たまに新聞みたいにして、ページデザインのリズムを崩さないと印象に残らないし、読者の指が止まらない」のでは、と議論していた。

まっすぐな線ばかりでなく、ちょっとバランスを崩して斜めにしてみたり、波打たせたり...
そういったランダムさ(というより、「より複雑で豊か、有機的な規則性」)や、メリハリ、強弱、裏をかいたリズムや狙った不協和音が、モノ(記事)の存在感を浮き立たせる。「弱」の記事にも「強」の記事から導線を貼っておけばいい...

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展示されていたビデオの中にでてきたセリフ
「線を動かしても、人々は勝手に自分の居心地のいい場所を探してくれるもの」(だったかな?うろ覚え)
っていうのが、すごく印象に残った。

そうなんだろうと思う。

何もない平面だと、意味のある場所は「隅っこ」と「真ん中」だけだけれど、この平面にうねりをつけるだけで、それぞれの人が、それぞれの個性にあった、自分だけの居場所を見つけやすくなる。

メディアテークのmaking ofを巨大プロジェクターで見せる部屋があった。そこのベンチが伊藤豊雄の作なんだけれど、これもやはり表面がうねうねしている。
凹凸の凹の部分が、お尻がすっぽりはまって座りやすいかと思ったけれど、ちょっとずれて凸の部分もなかなか座り心地がいい。そうやってお尻で自分の居場所を探していく。
曲面のアフォーダンスとお尻で対話。

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それにしても、テクノロジーが進化して表現力が増したはずなんだから、もっと平面デザインも含めたいろいろな分野で、表現の幅が広がっていいはず。 もっと、人工的でなく、ランダム(あるいは複雑なパターン)で自然なものに進化させてもいい気がする。
いや、実際に広がってはいるのか。
ただ、その広がった表現が、より大勢の人にまで広がるのに時間がかかっているのかな?

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ちょっと前までは、テクノロジー自体がまだ発展途上だったから、表現も稚拙だった。
でも、今はかなり豊かな表現ができるようになっているはず。
昔は「モザイクみたいで誰の顔だかわからないよ!」程度の表現しかできなかったコンピューターが、今は100万画素、被写体が誰なんだかはわかるくらいまで進化してきた気がする。
それにあわせて表現の方も、うまく進化していけばいいと思う。

フランク・O・ゲーリーや伊藤豊雄なんかは、コンピューターのテクノロジーをより豊かつ自然に見える人工表現に向かわせている気がする(ああいう、3次元曲面って、自然界にはない曲面なのかも。そのあたり詳しい人、コメントで教えて!)

PIXAR Animation Studioなんかは、技術をかなり限界まで駆使して、新しい表現に挑んでいる。
ジョン・ラセター監督の座右の銘は「アートはテクノロジーに挑戦し、テクノロジーがアートにひらめきを与える」。
PIXARでは、アーティストの側から技術者に無理や要求を出すと、「最初は無理だよ」といっていた技術者がそれを実現してしまう。そしてその技術が実現すると、アーティスト達がさらに進んだ表現に挑戦するといういい循環が行われている。

ちょっと脱線してしまった。

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伊藤豊雄の展覧会でも、確か冒頭に「都市化の中で建物が均質化した...」、「その中で「モノ」としての強さを感じさせる建物を...云々」と書いてあった。
世の中、均質な物なんて不自然だしつまらない。
伊藤さんの建築も、人工物でありながら自然の方に回帰(あるいは自然の再現)に向かっているのかなと感じた。
特にこのインスタレーションの上を歩いた時には...
http://www.operacity.jp/ag/exh77/gallery_05.html
このうねうねのエマージング・グリッドの曲面を足場に作品を展示している部屋、「新日曜美術館」で見たときからすごく楽しみにしていたのだけれど、やっぱり、楽しい!(あと3回は行きたかった)。

部屋に入った時に、抱いた印象は、なんだかこれこそが夢見ていた未来のユートピア、みたいな印象。

「レトロフューチャー」:昔、絵本や漫画で見ていた未来像って、うねうねの建物の間を、オーガニックなカーブを描くチューブが通っていて、流線型のエアーカーが飛び回っている、という都市的なイメージもあったけれど、それとは別に人と自然がもっとうまく共存しているみたいな、もっと緑一杯な映像も頭の中に残っている。
で、そういう広場って、自然なので足場は平面なんて言うことはありえなくて、起伏にあわせて、それぞれの人が、いい具合に自分の場所をつくって、それを中心に人が集まっている。
心地よい人と人の間の距離感が自然発生する。

ゆっくり見たかった展覧会だけれど、最後の1時間だけ、しかも、私は次の用事に追われていて、最後のセクションはほとんど見ることができなかった。

「批評性のない住宅は可能か」っていう自筆の論文だけ、誰も見ていなかったので、チラチラっと読むことができたけれど、あれおもしろそう。今度、じっくり読んでみたい。「住宅特集'98年9月号」に載っているようだ(と、さりげなく、ここにメモ。実は館内でメモするものが見つからず、携帯のメモ帳機能に書き留めてしまった)。

駆け足だったけれど、おもしろい展覧会だった。

仙台メディアテーク以降、伊藤さんの頭の中にエマージング・グリッドの考えがエマージしてきた様子が感じられた。

台中メトロポリタン・オペラハウス・プロジェクトは、やっぱり実物を見てみたいな。

明日は杉本博司? > a

投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2006年12月25日 | Permalink