コミュニケーションという幻想
■文意は読み手の頭の中でつくられている
四半世紀近く物を書き、情報を発信する仕事を続けた自分がたどり着いたのは「コミュニケーション不信」だった。
少し文章長めくらいで、懇切丁寧に説明しても意図が伝わらないことが多い。
逆に誤解が生じないように簡潔に削ぎ落とした文章でも伝わらない相手には伝わらない。
ソーシャルメディア時代になり、読んだ人の感想を目にする機会が増えたことでつくづく思い知らされたのは、文章の意図と言うのは書き手以上に読み手の頭の中でつくられるという現実だ。
世の中の半分くらいの人は文章を読む時、頭の中で声に変換して読むそうだ(私もその1人だ)。
ここでは実験として、普段、そうしない人も、次の文章を頭の中で、好みの明るい性格の女優さん(友達でもいい)の声を想像して読んで見てほしい
「元気そうね」
ここで一度、スイッチを切り替えて、下のまったく同じ文章を常にどこかにシニカルな雰囲気の漂う声で読み直してほしい(誰も思い当たらない人は美川憲一さんや泉谷しげるさんあたりを想像してもらうといいかも知れない)。
「元気そうね」
まったく同じ文字列が、読み手が明るいムードか暗いムード、頭の中でどっちの声で読んでいるかだけで、まったく印象が異なることが多い。
このように文字によるコミュニケーション成功の鍵の半分以上は、書き手ではなく、読み手の手中にある。
最近、文字だけでは伝わらない感情などを伝達する日本の携帯電話生まれの「絵文字」がMoMAの収蔵品になったが、何か象徴的なできごとのように感じた。
だが、絵文字が完全な解決策ではない。
よく知り信頼している相手による文章であれば自然と好意的な頭の声で読み好意的に受け止められるし、逆に疎んでいる相手、不信感を持っている相手が発した文章であれば、どこかネガティブなフィルターをかけて解釈してしまう。それが人間だと思う。
■コミュニケーションのノイズ
難しいのは文字によるコミュニケーションだけではない。
声を使ったコミュニケーションにも難しさがあることを図で説明したい。
米国の大学に通うと「Communication 101」という必須科目がある。今でも強く印象に残るのは意思伝達に潜む多くのノイズ/障害がいかに多いかの話だ。英語のWikipediaにも項目があるが「Communication Noise」には主に「心理的ノイズ」、「環境的ノイズ」、「物理的ノイズ」、「セマンティック(意味的な)ノイズ」があると言われている。
簡単に図示をしてみても誰かの思いが相手に伝わるというのはもしかしたら奇跡なんじゃないかと思うくらいに障壁が多い。
例え話者が非常に卓越した言語力を持っていたとしても、そもそも1つ1つの語に対して持つ印象「語感」は人によって差異があるものだし、メッセージの発信者と受信者の頭の中で同じイメージの複製が行われることは皆無といってもいいだろう。
さて、上の図の多くは、文字によるコミュニケーションにも当てはまるものだが、私が特に致命的と思っているのが「そもそもの解釈の失敗」という部分だ。
一卵性双生児でも、生まれた瞬間から異なる体験の蓄積が待っている。人々の価値観というものが体験の蓄積で醸成されるのだとしたら、価値観は一人一人皆、異なっているはずだ。
そして価値観が異なれば、同じ物やアイディアに対しても、それをどのアングルから眺め、どう切り取って言語化するかの手法も異なる。
同様にメッセージの受信者も、万が一、すべての障壁を乗り越えて「卓越した能力で言語化」したメッセージを間違いなく受信したとしても、それを解釈し、頭の中のイメージに落とし込むに当たっては、それまでの経験や知識の影響を大きく受ける。
ずっと会話が成り立っていると思っていたのに「え!〜〜の話だったの?〜〜の話だと思っていた」というのはよくあるできごとだ。
TwitterやFacebookなどへの書き込みに対しても、想像もしなかったアングルの脈絡のない返答がきて「この人はどういう思い、どんな認識で、この返信をしてきたのだろう」と悩むことも多い。
■Web 2.0で何が変わったのか
それでも20世紀のマスメディアは、多くの人にその意図を伝え、新しい文化を生み出すことも少なくなかった。これら旧来型マスメディアがうまくいっていた一因は、20世紀メディアの多くが受け手が自分の価値感にあうものを吟味してチューン・イン(選択)をする特性があったからではないか。
視聴者や読者は、情報に触れる前に、ある程度、ふるい分けが行われていた。
例えば同じiPodのレビューでも、ファッション誌なら形や色についてしか触れなくても「技術的考察が少ない」と怒る読者もいなかった(そもそも怒るような読者はファッション誌を買っていなかったり、ファッション誌を読む間だけは頭を切り替えていた)。逆に技術雑誌のレビューに見た目や触り心地を無視していると憤慨する人も少なかった。スポーツ新聞の記事を読んで「ふざけている」と憤慨する人もいなければ、特定のイデオロギーに基づいた本を買って自分のイデオロギーと違うと怒る人もあまりいなかったはずだ。
テレビ番組も、ラジオ番組も、雑誌も、それぞれが世界観であったり共通の価値観を持っていて、門をくぐるという通過儀礼、つまりチャンネルを合わせたり、書店で購入した後は、読者もその価値体型の中で内容に触れていた。
おそらくこれはインターネットが広まり始めてからもしばらくは同様で、ブログが広まり始めたくらいも同様だったかも知れない。
変わったのは、「Web 2.0」というバズワードと共に、ソーシャルメディアが普及してからだと思う。
「Web 2.0」で、それまでの読むだけだった人たちがコメント欄であったり、ソーシャルメディアで情報を発信する側になったことも大きいが、それ以上にソーシャルメディアの普及でコンテンツがバラバラに分解されたことの方が大きいように思う。
人々は面白いニュースをTwitterやFacebookで発見し、トップページを素通りしていきなり目当ての記事に飛び、そのままトップページや他の記事を見向くこともなくTwitterやFacebookに戻っていく時代が始まった。
デジタル技術が音楽アルバムを曲単位の販売に分解したように、Webニュースサイトというコンテンツは解体され、その中のコンテント、つまり個別のニュースが直接アクセスの対象になった。
ソーシャルメディアの投稿やRSSフィードから、1クリック0円とわずか数秒の移動時間で、自分とまったく異なる価値観のコンテントにも首をつっこめてしまう。
コンテントを価値観の合わない人たちとの接触からかくまっていた、コンテンツとしての世界観や価値観の壁が崩落した。