Japonisme 3:21世紀の文化を静かに形作る力

はじめに


For the original English text, read my medium post <here>.

ここ数年、私は新たなJaponismeの時代の只中にいるのではないかという考えに取りつかれている。私はこの新しい潮流を「Japonisme 3」と呼んでいる。


 ずっとこのことをどこかで発信したいと思っていたが、日々の仕事に追われていてなかなかできずにいた。思索を重ね、さまざまな情報を集める中、同じ考えを持っている人が日本国内だけでなく、海外でも少なくないことを知った。
 実はNHKの有名なディレクター/エグゼキュティブプロデューサーで友達の加藤拓さんもその1人。1月からNHKスペシャルの新シリーズ「ジャポニズム」が始まることを昨年末に知った。
 NHKスペシャルの発信力と私の発信力では比較の対象にもならないが、幸か不幸か同じ現象を察知していても、取り上げ方のアングルや狙いは少し異なるようだ。また不幸中の幸いにして、私は当初から最初のジャポニスムの起点で日本文化の優れたところを豊かな感受性で受け止め、拡張してくれたことへの敬意も込めて、「Japonism」という英語の綴りではなく、フランス語の「Japonisme」という綴りを好んで使ってきた。日本語で書く場合も英語に合わせた「ジャポニズム」ではなく「ジャポニスム」という澄んだ音の書き方で通している。今後も継続的に情報発信をする予定なので、もし区別の必要がある場合は、ここに注意してもらえればと思う。
 さて、以下は私がmedium(noteの国際版/英語圏版だと思ってもらえばいい)で年末に発信した「Japonisme 3: the Quiet Power Shaping 21st Century Culture」という記事を日本人用に手を加えながら訳したものだ。



Japonisme 1:日本文化の最初の波


「Japonisme 1」は多くのヨーロッパの芸術家とファッションデザイナーに影響を与えた動きである。当時、日本は異国情緒あふれる国と見なされていた。19世紀後半のヨーロッパにおける日本美術の影響は革新的だった。浮世絵版画がパリに初めて届いた時、それはヨーロッパの芸術家たちの遠近法、構図、色彩の捉え方を一変させた。1867年と1878年のパリ万博は、日本の芸術と文化を大勢のヨーロッパの人々に紹介する上で重要な役割を果たした。特に後者の博覧会は影響力が大きく、ヨーロッパの芸術家や知識人の間で日本の美意識への関心が高まるきっかけとなった。


クロード・モネによる「ラ・ジャポネーズ」(1876年)、ボストン美術館所蔵。


浮世絵版画の平面的な構図と非対称的なデザインは、印象派の巨匠たちが西洋の伝統的な芸術の規範から解放される契機となった。これらの芸術家たちは単に日本の版画から影響を受けただけでなく、熱心な浮世絵のコレクターであり研究者ともなった。特にClaude Monet(クロード・モネ)の情熱は際立っていた。彼は自宅に約230点もの日本の版画を飾り、ジヴェルニーの庭園に日本風の太鼓橋を建設して、浮世絵で見た風景を実際に再現したのである。Vincent van Gogh(フィンセント・ファン・ゴッホ)の情熱は異なる形で表れた。彼は浮世絵の技法を理解するために丹念に作品を模写し、その影響は後年の作品に明確に表れている。
着物の優雅な直線的なシルエットと流れるような意匠は、Paul Poiret(ポール・ポワレ)などの西洋のファッションデザイナーに影響を与え、ヴィクトリア朝の窮屈なスタイルから脱却した新しい服飾デザインのアプローチを生み出すことに貢献した。日本の美意識の影響はアール・ヌーヴォーの誕生にも重要な役割を果たした。


Japonisme2:戦後復興からグローバルイノベーションへ


「Japonisme2」は第二次世界大戦後の数十年間に現れた。この時期、日本は廃墟から立ち直り、技術的卓越性と緻密な職人技で知られる国へと生まれ変わった。西洋の日本文化に対する見方は、単なる「異国情緒」から、家電製品から自動車まで幅広い分野でのイノベーションの源泉として見られるようになった。ソニー、トヨタ、ホンダといった象徴的なブランドは信頼性と創造的なエンジニアリングの代名詞となり、戦前の日本製品に対する認識から印象的な変化を遂げた。ソニーのウォークマンは世界の音楽の聴き方を変え、トヨタの製造方法(特に「ジャスト・イン・タイム」システム)はグローバルな産業慣行に影響を与えた。ホンダも効率性とスタイルを融合させ、国際的なアイデアを取り入れながらも日本独特の感性を保持した機能的かつ洗練されたデザインの進化する哲学を示した。


“STEREO WALKMAN II” (WM-2, 1981) SONY


技術以外の分野でも、「Japonisme 2」は文化産業の創造性の領域にまで及んだ。調和、簡素さ、素材への敬意といった原則に導かれた日本のデザイナーや建築家たちが国際的な注目を集め始めた。彼らのミニマリスティックで細部にこだわるアプローチは、新しい視点を求める建築家やエレガントな解決策を目指すプロダクトデザイナーたちの共感を呼んだ。
 こうしたイノベーションと並んで、カイゼン(継続的改善)のような日本的経営概念も、日本のビジネス慣行への世界的な関心を高め、「メイド・イン・ジャパン」を品質の象徴として確立することに貢献した。正確さと効率性で知られる新幹線など、伝統を重んじながら現代のエンジニアリングを推進する国のイメージ形成に一役買うアイコンも多い。


Japonisme3:新たな文化ルネサンス


そして今、我々は「Japonisme 3」の只中にある。
「Japonisme 2」の最中でさえ、大衆にとって日本は依然として異国情緒あふれる国であり、多くの西洋人は生魚を食べる習慣を奇異なものと考え、日本製品を使用しながらもどこかで日本人の奇異な特性を見下し嘲笑している人も少なくなかった。いや、年配層は今でもそうかも知れない。しかし今、世界の若い世代の多くはスタジオジブリ作品を含むアニメやマンガを見て育っている。彼らにとって日本文化は既に奇異なものではなく、むしろ羨望の対象となっている。
 今では多くの人々が日本を訪れてやってみたいことの1つがおにぎりを食べることだという。日本では単なるファストフードに過ぎないが、多くの若い西洋人にはアニメで見ていつか食べてみたいと思っていた憧れの食べ物だという(いや、これは少し前かも知れない。なぜなら多くの国際都市では既におにぎり屋さんの店舗ができ始めているからだ)。



 私がこのジャポニスムの第三の波を初めて意識したのは2001年、家族を連れてフランスとイギリスを旅行していた時のことだ。当時2歳だった息子は英語をまったく話せなかったが、両国の公園で出会ったフランスやイギリスの子供たちと一緒に同じメロディでポケモンの歌を歌って交流していた(現代26-27歳の世代)。
 それ以後、こうした小さな兆候をあちこちで目にするようになった。日本人・非日本人を問わず、多くの国際的な旅行者たちも同じような傾向を感じているようだ。


この第三の波を真に注目に値するものにしているのは、その驚くべき幅広さである。日本文化の特定の側面に焦点を当てた以前の波と異なり、この第三の波は世界的な関心を集める非常に多様な文化要素を包含している。
もちろん中心にあるのは日本の食文化だ——伝統的な和食からコンビニフード、屋台まで、日本酒からウイスキー、クラフトジンに至るまで。
 これと並行して、マンガ、アニメ、文学、映画といった文化コンテンツも大きな影響力を持っている。
 伝統工芸から工業製品までに見られる日本の美意識や細部へのこだわりは今でも大きな注目を集めることが多い。
 この文化的な注目は、日本独特のライフスタイルにまで及ぶことも多い。庭園や盆栽を通して感じる四季の移ろいを含めた自然を敬う精神、折り紙や茶道にも見られる求道精神、スポーツ競技におけるエチケットや清潔な生活習慣。一見すると平凡に思える生活の側面さえも注目を集めている。独特のコンビニエンスストア文化、飲み物から熱々のラーメン、生花、処方薬に至るまで多様な商品を提供する自動販売機、そして独特の商習慣など。かと思えば模型から、族車(バイク)乗りの独特な習慣などかなりニッチな日本文化に興味を持つ海外の人も少なくない。
 ファッションも無視できない領域の1つだ。デニムやスニーカーの独特な日本的解釈から現代のストリートスタイルまで世界を魅了する日本のファッションは多い(ファッションは私のジャポニスム論の中で大事な一角を担っている)。
 音楽も新しい聴衆を獲得。20世紀末の日本のシティポップが、21世紀になって世界中にファンを獲得したのは多くの人が知るところだ。自然環境も人々を様々な形で魅了している——北海道のスキーリゾートのパウダースノーから沖縄の熱帯の海、知床の手付かずの生態系から屋久島の古代の森など、世界の人々を魅了する要素はかなり多種多様だ。


文化のるつぼとしての日本


日本をよく知らない海外の人や一部の国粋主義的な日本人は日本を単一民族・単一文化という人もいる。だが、実は日本の文化は極めて多種多様で複雑だ。
 その裏には、実は日本が古来から文化のるつぼであったという背景がある。
 最近のDNA研究により、日本人には約8,900年前から列島に住んでいた縄文人、弥生時代に到来した北東アジアの人々のDNAに加え3つ目の祖先がいることが明らかになりつつある(NHKサイエンス&カルチャー誌(2021)「私たちは誰なのか?—DNAを通じて現代日本人への道を辿る」が詳しい)。
 そうしたことに限らず、日本は仏教やキリスト教などの宗教から、金平糖からドイツのバウムクーヘン、インドのカレーからイタリアのパスタなどの食べ物まで海外から渡来した文化を独自の解釈や資源の限られた日本ならではの独自の工夫を加えながら進化させ発酵させ自分たちのものとしてきた。そうした痕跡は日本のそこかしこで見ることができる。
 このように日本がさまざまな文化の受け皿となっていることを、物凄くインスピレーションあふれる形で説明したのが高野尚氏の『世界地図の読み方』で指摘されている90度回転させた世界地図だ(原研哉さんが著書「デザインのデザイン」用に描き直した地図が美しくわかりやすいので機会があればそちらを参照して欲しい)。


90度時計回りに回転されたユーラシア大陸の古地図。興味深いことに、日本の鉄器文化の多くはユーラシア大陸にルーツを持つことが、日本海沿岸で発見された数多くの鉄工文化の痕跡によって証明されています。さらに、日本海岸沿いの地域で「まれびと」という異国の神々を讃える祭りが今なお数多くとりおこなわれている。


 90度の回転を加えると日本はユーラシア大陸の下の受け皿のようで、何千年もの間に流れ落ちてきた様々な文化の滴を受け止める絶好の位置にあることが分かる。
未来を見据えて この文化的同化を特に日本的なものにしているのは、資源の限られた島国という国の性格によって形作られている点だ。これは保全を重んじ、人々と自然の恵みに感謝し、礼儀の心を保持する文化を育んできた——エコロジーと平和に焦点を当てる21世紀において、これらの価値観はますます重要性を増しているように思われる。
 そんな「Japonisme 3」だが一つ残念な側面もある。現代の日本人の多くが自国の文化的豊かさを味わう余裕を持たず、その価値を十分に認識していないことだ。明治時代の先人と同様に、若い世代は西洋文化だけが優れているという偏った考えを抱いている人が多い。実際、今日の日本に暮らしていると、日本の注目すべき特質について、同胞の日本人からではなく、外国人から学ぶことが多い。
 この投稿のオリジナルである英語版を紹介したソーシャルメディアの投稿にTimothy Connor(ティモシー・コナー)という方が非常に重要な指摘をしてくれた。日本に住み、活躍している海外のコミュニティは、かつて狭まっていた日本の視野を再び広げ、国を出たことのない人々の視点だけでは決して実現できなかったであろう日本文化のグローバルな貢献を促していると思う。
 これもまた、「Japonisme 3」の大きな特徴の一つと言えるだろう。
 そんなこともあって、私はこの「Japonisme 3」というムーブメントを日本人に伝えてもあまり意識改革につながらないのではないかと懸念している。だから、まずはMediumなどで英語で先に発信し、国際的な読者の間で日本文化への理解を深めることを目指している。それらの記事への反応を通して、自国の文化が海外でどのように評価されているかを日本人に示す方が遠回りではあるが、結果としてはより多くの日本人に早く自国文化の価値を認識してもらう近道だと思っている。
「Japonisme 3」は、これから先、私が扱ういくつかのテーマの中でも最も重要な1つになる。日本の読者でも、こうした活動に興味や共感を示す人がいたら、どんな形であれ応援をしてもらえれば嬉しく思う。


投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2025年01月05日 | Permalink

COVID-19からの学び2:更新されつづける情報とその残響


混乱を大きくした情報の残響


「新型コロナにはイブプロフェンが効く」、「英国でかえって症状を悪化させたと話題になっている」、「英国での改めて効果を検証中(2020/6/4時点)」。「マスクは無意味」、「一定の効果はある」、「マスクは必須」。
 コロナ禍、あらゆる情報が激しく揺れ動いた。
 
 そもそもこれが深刻な感染症のかの議論から始まり、感染率の高低、どうやってうつるのか(飛沫感染はあるのか)、どういう症状か、どんな薬が効くのか、どれくらい感染者がいるのか、どう対処したら良いのかなどなど、この数ヶ月間さまざまな重要情報が毎日のように大量に出てきては、早い場合は1日も経たないうちに覆った。
 (私も含め)最初は主張の一貫性を重視していた人達も、しばらくすると「知識が常に更新されつづけるのがサイエンス」と考えを改め、前言に固執するよりも最新の情報に基づいて柔軟に考えを変えつづける方が大事だと変容していった。
 そんな情報の乱流の中、混乱をひどくしていたのがソーシャルメディアだった。
 あきらかな悪意を伴ったデマや根拠のない断定口調という文字コミュニケーションに起因する問題もあるが、今のソーシャルメディアの仕様や使われ方にも問題点があり、これは正せる可能性がある。
 私が最大の問題と感じている問題に「残響情報」という名前をつけさせてもらった。
 皆さんは1日にソーシャルメディアを見ていて、何度、同じ情報を目にするかを思い返して欲しい。
 何かの事件が起きて、それがツイッターに流れる。例えばGeorge Floydさんの殺害事件などを例に挙げると、私はそもそものきっかけとなっていた動画のツイートを英語圏の友達のリツイート(再配信)で見ていた(あまりにショッキングだったのでリツイートできなかった)。
 その後、この事件はすぐに、CNNだ、APだ、Reuterだ、BBCだと、さまさまざまなニュースで取り上げられ、それらのツイッターアカウントからも情報が発信される。すると、次にそのニュースを見た人たちが、ニュースを拡散し始める。ただ公式RTをする人もいれば、ひとこと添えてリツイートを行う人もいる。さらにそれを見た人と第2波、第3波が重なってゆく。
 これだけでも同じ情報が何重にも重なって繰り返されるには十分だが、これで終わりではない。
 もう少し時間が経つと、さきほどのニュースメディアの人たちが、さきほどのツイートを見逃した人たちのために、一度ツイート済みの情報を繰り返しツイートを行う。ツイッター慣れをしていない人は違和感を感じるかも知れないが、つ1日中ツイッターを見ている人はいない。朝の通勤電車で見る人、ランチ中に見る人、夜しか見ない人もいるため、時間をずらして同じツイートを行うと、異なる層の人たちから大きな反響がくる。世界中で話されている英語でのツイートとなれば、時差の観点からも、これが重要になる。
 こうやって1つのニュースが、何百何千種類の記事になって、長い時では1週間くらいTwitterの上を還流し続けている。
 時間をおいて、再発信する行為そのものを否定するつもりはない。そもそも自分でもやっているので否定できる立場にない。
 だが、平常時なら許容できるこうした情報の流れが、緊急時には実害を伴う。
 例えばCOVID-19への対処方法に関するニュースが数日間還流している最中に、その情報が間違いで逆効果であるニュースが発せられたとする。
 メディア企業は新事実が発覚したと同時にそれを伝え、以後、古い記事を改めてツイートすることは避けるだろうし、ちゃんと古い記事には訂正を入れる。
 だが、読者となるとそうはいかない。ほとんどの人は、ニュースの日付なんか確認せず、ただ価値がある/面白いと思ったら拡散をしてしまう。こうして、いつまでも古い情報が環流を続ける。



デジタルツールの主流は情報堆積型


TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアの投稿は削除ができないわけではないが、それをする人はほとんどおらず、基本的に次々と新しい投稿が追加される一方だ。
 ただ、あまりにもたくさんん新しい情報が追加され続けるるから、古い情報は遡れなくなって、どこかへと流れていってしまう。名付けてストリーム(川の流れ)型メディアとも呼ばれる(だからこそ、時差投稿が意味を持つ)。ストリームと書くと軽やかなイメージがあるが、見方を変えれば情報が堆積しつづけるメディアともいえる。
 東日本大震災後、IT技術が災害時にどう役だったか(あるいは役立たなかったか)、グーグルの依頼で山路さんと調査した(東日本大震災と情報、インターネット、Google)。この時もデマの対処法としてたどり着いた結論は、「デマの拡散量にまけないくらいたくさん正しい情報を流す」で、結局は情報をさらに増やす方向のものだった。

 だが、新聞や雑誌など紙媒体ではこうはいかない。1ページ辺りの文字量も、全体のページ数も決まっていて、デスクと呼ばれる人が、限られた紙幅でどの情報を載せるか常に取捨選択をしている。
 だから、情報の受け手は、膨大すぎる情報に押し潰されることなく、決まった読書量に凝縮された美味しいところどりの情報を得られる。
 これに対してインターネットの情報は、記事1つの長さも、1日にどれだけの量の記事を提供するかも制限がない。食べ終わっても、おかわりがで続けるわんこそばのようなものだ。
 人には1日24時間という時間の制約もあれば、次の食事を取るまでに活動できる量、1日に吸収できる情報の量といったもののキャパシティーが決まっている。デジタル情報はそうした身体性を無視して、ホワイトホール(ブラックホールの逆の存在)のように情報を出し続ける。
 Twitterは、そこに1投稿140文字の制限を設けて、情報を飲み込みやすくした。たが、1日に投稿できる数の制限はないのでホワイトホール感に変わりはない。
 気がつけばニュースサイト、ソーシャルメディア、メッセンジャーソフト、電子メール、どのデジタル情報ツールも永遠に終わりがやってこない巻き物のような構造あるいは閉まることのない蛇口から永遠に情報を浴びせられつづける構造だ。われわれはそこでおぼれ続けるしか道はないのか?



情報をまとめなおすというWikiのアプローチ


よく見渡すと、ストリーム型(情報堆積型)とは異なるアプローチのサービスが既に存在している。Wiki(ウィキ)という仕組みだ。
 知っている人は少ないかもしれないが、このWikiでつくられたWikipedia(ウィキペディア)なら知っているという人が多いだろう。
 Wikipediaは、どこかの出版社が無償提供している電子辞典サービスではなく、Wikiというインターネット上のワープロのような仕組みを使って、何万人もの人が言葉の定義を共同作業で編集してつくられている。善意の塊による辞典だ。
 面白いのは、既にあったWikipedia上の定義があとで間違いだとわかると、気がついた人が、既に書かれていた他の誰かがせっかく書いてくれた内容をバッサリ削除して、書き直す。
 ただ、ここがデジタルの素晴らしいところで、実はどの文章が削除され、どう書き換えられたかはちゃんと履歴が残っていて、いつでも古い状態に戻すこともできるのだ。
 だから、勘違いをしている人が書き直しをしてしまっても、ちゃんと前の元の状態に戻せる(勘違いした人がどうな書き換え、再訂正されたかの履歴も残る)。
 情報を延々と追加しつづけるのではなく、「まとめなおせる」というのがストリーム型メディアとの違いで、1つの文章を100人が編集したからと言って100人分の情報をつきつけられるのではなく、あくまでも目にする情報の量は見た目上は増えない(その代わりにすぐには見えない履歴は増え続ける)としたのがWikiの画期的なところだ。
 ストリーム型メディアのように1+1=2と情報が積み重なるのではなく、1+1=betterな1という感じで、情報の量を増やさず質だけを高めることができる。
 メッセージアプリ(やメール)での議論なども、誰かがWikiで決定事項をメモしていれば、途中から参加した人も、やりとりを冒頭からすべて読み直すのではなく、wikiで決定事項のまとめを見て、いきなり議論に参加することができる。
 残念ながらWikiはたくさん種類があるが、どれも操作方法が難しく、なかなかとっつきにくいという問題がある。
 だが、今ではMicrosoft WordやApple社のPagesなど多くのワープロソフトや、るGoogleドキュメントのクラウド版ワープロも同様の編集履歴の記録を備えており、これらをWiki的に活用することもできるはずだ。



新しい情報サービスへの期待


投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2020年06月05日 | Permalink

COVID-19からの学び1:無駄こそが大事

つくらない都市計画というイベントで色々な人とZoomオンライン対談をした。写真はロジェ・ヴィヴィエのデザイナー、ゲラルド・フェローニ氏とマドモアゼル・ユリアを招いてのトーク。フェローニ氏は「イタリアは日本と違ってIT化が遅れている」と言われ「日本も同じ」と答える場面があった。上の画像をクリックで対談が見られます。


コロナ禍で起きた、かつてみないスピードのデジタル化


あなたの会社のデジタル移行を推進したのは?
A)CEO
B)CTO
C)COVID19

コロナ禍、英語圏で流行ったツイートだ。見つけてすぐに私も日本語訳を付記してリツイートしていた


実際、COVID-19(新型コロナウィルス)による外出自粛が広がる中、Zoomなどのソフトを使ったビデオ会議が、世界中に一気に広がった。
 ちょっと前までITが苦手そうだった人まで「次回のミーティングはこちらで」と慣れた様子でZoomミーティングのURLとパスワードを送ってくる様子に何度か驚かされた。
 私もイタリアでお城のような家に住むファッションデザイナーから、ボストンに住むテクノロジー系アーティスト、京都の庭づくりの職人、百貨店の店員まで幅広い人とZoomでトーク番組やミーティング、飲み会などを行なった。
 パソコンそのものの普及や、インターネットの利用、ソーシャルメディア、スマートフォンなど、さまざまなデジタルテクノロジーが世の中に浸透する様子を目の当たりにしてきたが、ニーズに駆られて広がったこの4〜5ヶ月のビデオ会議に勝るスピードのデジタル化(デジタルトランスフォメーション)は見たことがない気がする。
 しかし、それに合わせてさまざまな問題も生じている。
 特に「Zoom疲れ」などと呼ばれている心理的ストレスの問題を耳にすることが増えてきた。
 これは十分に予見できたことで、私もMacFanという雑誌の3月末発売号のコラムでもこれを予言していた。
 でも、もしかしたらデジタルツールに慣れ親しんでいるデジタルネイティブの世代は、感じ方が違う部分もあるのかも知れない、と思っていたが、先週、急速なデジタル化はデジタルネイティブに取ってもストレスの大きなできごとだと知る機会があった。
 金沢美術工芸大学での遠隔授業だ。私は河崎圭吾教諭の誘いで2019年度より同学の客員教授として年に1〜2回の講義を行なっているが、先週、約1年ぶりの講義をZoomで行ったのだ。

学校オンライン化がもたらす心理的負担


Rhizomatiksによるオンラインで空間を再現したSocial Distancing Communication Platform


 1年に1回の頻度では、生徒の素性や能力、関心事も知らないままで、普通に講義をしてしまうと、どんな生徒かもわからずに一方的に講義する形になってしまう。そこで授業に先立って提出してもらう事前課題を用意した。
 どうせならテクノロジーの精通度や、どんな考えや価値観を持っているかや、そしてコロナ禍にどんなことに困っているかを知りたかったこともあり、「外出自粛をつづけながら、より良い学びを可能にするシステムの提案」をテーマにした。
 たくさんの興味深く示唆に富んだ提案があった。優秀な提案も多かったので、興味のある企業にはヒアリングでもしてもらいたい。これまでもスカパーなどいくつもの大企業とプロジェクトを進めてきた学生たちなので、詳細の発信は学生たち本人に任せたい。
 だが大まかに分類すると、以下の2つの提案が多かった。

(1)雑音を排除したコミュニケーションが生み出す不快さ
(2)隙間時間をなくしたことが生み出す不自由さ

(1)は、私もMacFanのコラムで指摘した点だ。デジタルツールの多くは、効率化重視でつくられていて、それ故に使う側も効率を重視してしまいがちだ。
 コミュニケーションツールの、ビデオ会議では、実際には世界各地に散らばって離れ離れにいる人たちが、やや至近すぎるくらいの距離でお互いの顔を正面から覗き込むようにしてコミュニケーションをすることを前提につくられている。話している人の声は、相手との距離に関係なく均等な音量で届く。小さな雑音も均等な音量で届くので、人数が少しでも多くなっていると、誰かが話をしている間は他の人はミュートにして一切の物音を発せず聞き役に徹するといった形での話し合いになることが多い。
 話す側は相槌や笑い声といった反応もない中、相手が本当に聞いてくれているのかもわからない不安にかられながら暗中模索でひとしきり話しては、他の人に話を振るスタイルだ。これは教員だけでなく、聞いている側の生徒も疲れる。
 課題では聞いている人たちのリアルタイムの反応を話者に返すための仕組みの提案であったり、例えば隣の席の人や、同じ班の人の授業中の私語が聞こえてくる実際の教室のような空間的概念を取り入れる提案が目立った。
これもまさに私がMacFanのコラムで指摘していたものだが、他の多くの人も、同様のフラストレーションを感じているのだろう。最近、周囲を見渡してみても、そういった試みを目にすることが多い。
 例えばspatial.chatというロシアのサービス。これはまさに画面上に仮想空間をつくっては利用者をアイコンとして表示。自分のアイコンを動画や他の人のアイコンに近づけると、近づいた動画や人たちの声は聞こえやすくなるが、それまで聞こえていた動画や人たちの話し声は音が小さくなり、現実世界のような音の空間が再現されている。
 ライゾマティクスも、緊急事態宣言中、毎週金曜日に開催していたイベントの後で、同様の音空間を使った実験を行なっていた(Twitchというサービスを基盤にして独自に開発。そこで真鍋大度さんがDJをしていた)。
 「授業中の私語」など、先生によっては言語道断で、まったく無駄なもののように思えるが、学生たちがリラックスした気持ちで授業を楽しむには、実はこうした無駄や遊びの部分があることこそが大事なのかも知れない。
 (2)の「隙間」というのも、まさにそうした無駄の話だ。ある生徒は、ZOOMでの授業だと、朝起きてベッドの目の前のパソコンの電源を入れたら、もう教室にいる。これだと授業に向けての気持ちの切り替えができない、と指摘していた。通学時間であったり、学校についてから廊下などを歩く移動時間。これもまったく無駄なようでいて、そこでしばらく会っていない友達とのセレンディピティが起きていたり、部活の話をしたり、気分の切り替えなどが行えていた。
 しかし、仕事や学校生活が効率一辺倒でつくられたデジタルツールで置き換えられたことによって、そうした本来大事だった「無駄」が突然、切り捨てられたのだ。


無駄こそが大事


佐賀県立美術館 「吉岡徳仁 ガラスの茶室 - 光庵 」展でのお点前パフォーマンス


 今のデジタルツールの多くは、こうした「身体性」をまったく考慮せずに、ただ「用を成す」こと、仕様書に列挙された機能を提供することだけを念頭に作られていることが多い。
 「効果的」、「効率的」、「機能的」かつ「実用的」であることに「最適化」はされているが、使う人の気持ちへの思いやりが少ない。
 心地よかったり、高揚感をもたらしたり、ポジティブな議論を促したりとかそういうものがない。
 ヒトとコンピューターではつくりが違う。
 ヒトは休みなく情報の洪水を浴びれば疲れてしまう。また次の仕事、次の勉強への切り替えに時間がかかる人もいる。デジタルコミュニケーションでも、会議でも全員と目を付き合わせて行うのでは疲れてしまうのでよそ見をするくらいの遊びも必要だし、あいづちや私語といった雑音も必要だ。
 多くの人がデジタル漬けになることで、今、改めて、こうした「無駄」と見なされていたことが大事だったかと実感した人も多いはずだ。
 奇しくも、私は昨年のカナビ(金沢美術工芸大学)でも、「これから無駄がいかに大事になるか」という話をしていた。
 3時間以上の講義の内容は多岐にわたったが、扱った中心テーマの一つはAI時代をどう捉えるかだ。AIが、人間を上回る能力で物事を認識し、処理してくれるAI全盛時代、人がそれに対抗しようとしても意味はなくなる。
 そんな時代の人間において求められるのが「無駄」を作り出すことではないかという話をさせてもらった。
 それまで多くの人にとって
 それまで多くの人が関心を持っていなかった地を探究して新しい「価値」を発見するマルコ・ポーロのような探究型、あるいはそれまで価値のなかった物事に、新たな価値を見出し宇宙のように広い世界をつくりだす千利休のように新しい価値を定義する価値創造型。
 特に後者は、少なくともAIが人間の道具である間は、出てこない利用法だろうし、そもそも自分と同じmortal(モルタル=いずれは死ぬ)である人間が定義した価値だからこそ、他の人も共感できると思う。
 人を魅了する奥深いストーリーづくり、世界観づくり、そして審美眼、こういったものこそが、少し未来、他の人々の共感を伴って、そもそもどのような価値観から生まれAI技術を採用するのか、といった選択にも関わってくるのではないかと思っている。
 インターネットやソーシャルメディアの広がりは「共感」や「反感」といった心理であったり、そもそもの「人と人のつながり」など極めて人間的な部分を増幅してきた、というと身に覚えがある人も多いのではないだろうか。
 デジタルツールが進歩して、人の生活の中で大きな役割を担えば担うほど、実はそれを使う人の「人間的な部分」こそが重要になる。
 「生人間力(なまにんげんりょく)」というのはeatKanazawaというイベントで中島信也さんが放った、なんとも力強い言葉だが、これからの時代はまさにそれが重要であり、そうした「生人間力」を増強するための道具は、人の身体性を考慮したものでなければいけないと考えている。


人に馴染む道具は、テクノロジーだけでは生み出せない


人間のためのコンピューター
インターフェースの発想と展開
ブランダ・ローレル編/上條史彦、小嶋隆一、白井靖人、安村通晃、山本和明ー訳
株式会社 星雲社(1994/10)


投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2020年06月03日 | Permalink

「接触者追跡」と異なるプライバシー重視の「曝露通知」、ぜひ区別を!

アップルとグーグルによる完成アプリのイメージ図

プライバシーは何よりも大事

今日、西田さんのTwitterでAsahi Shimbun GLOBEでも「接触者追跡」データーの記事があったことを知った。

多くのマスメディアが取り上げない重要な技術を紹介した歓迎すべき記事だ。
しかも、記事は「プライバシー保護」の観点に軸足をおいていて、これも非常に重要だ。
 新型コロナ流行の後、ユヴァル・ノア・ハラリも感染拡大の防止が「監視社会」を促す引き金になる懸念を何箇所かで述べているが、私もまったくその通りだと思う。
 日本はデジタルサービスでのプライバシーの問題に鈍感過ぎたので、一般紙で、こうしたプライバシーを検証する連載は価値がある思う。
 ただ、この記事には続編が必要だと思った。
 それは記事で指摘されているNSAに端を発するプライバシーを無視した「接触者追跡」の技術を反省した、「曝露(ばくろ)通知」という新しい技術が、アップルとグーグルによって開発されており、この技術は「まさにプライバシー保護」をもっとも重要と掲げており、しかも、新型コロナの流行爆発を防ぐ上で大きな希望が持てるからだ。
 問題は「プライバシーを重視すること」こそが「曝露通知」のもっとも重視している部分であるにも関わらず、技術のルーツが同じであるが故に正反対の「プライバシーを脅かす」技術と誤解されやすいのだ。

感染防止では妥協を許さないプライバシー保護が重要になる

 ここでまず、なぜ「曝露通知」では、妥協を許さない徹底したプライバシー保護が重要であるかを、実際の利用シナリオを通して考えてみたい。
 「接触者追跡」でも「曝露通知」でも、共通している2つのことがある:

  1. 人物AがPCRなどの検査を受けて、新型コロナに感染していることが判明したら、アプリを使って、その旨を登録する
  2. すると人物Aと2週間以内に濃厚接触していた人(例えば人物B)に「感染の恐れがある」という通知が届く

 ここで、もし、感染した人なり、濃厚接触した人が、2週間以内にやましいことをしていたとよう。
 人にはいえない恥ずかしい場所にいっていた、不道徳なことをしていた、誰かに嘘をついて行動をしていた--なんでも構わない。
 もし、ここでアプリが、人物Aなり、その接触者なりのプライバシーをおかして、例えば国だったり地方自治体だったり、家族だったり、職場だったりに、自分がどこにいっていたかや、誰とあっていたかの情報が漏れる可能性があったとしよう。
 人物Aやその接触者はどうするだろう?
 具合が悪くても健康を装い検査を受けない。あらゆる手段を使ってアプリへの陽性(=感染)情報の登録を避ける。届いた通知を隠す。
こういったさまざまなアプリの価値を台無しにする可能性が浮上してくる。

 やがて、自分のスマホに追加した技術のせいで、プライバシーが脅かされると知った人々は誰かと隠れて接触する時にはスマホを持ち歩くのをやめたり、持ち歩いたとしても電源を切ったりしてしまうだろう。
 これではせっかくの技術が意味をなさない。

 アップルやグーグルは、そんな無駄な技術のために、労力を払うほどバカな会社ではない。
 手間隙をかけて新たな技術を提供するからには、ちゃんと効果があることを目指す。

 なので、実は利用者のプライバシーを尊重するように何重もの工夫を重ねている。

 まず、そもそも利用者がこの機能の利用を望まない場合は、(残念だが)機能をoffにできる設計を採用している。
 また、誰かと誰かが30分以上近距離にいた、という事実は記録するが、どこだったかの情報は一切取得しない。また、感染者が自分が感染していたという事実を登録しても、それが誰だったかの情報は一切通知されない。また何時頃にあっていた人かも通知されない(ただし、何月何日にあった人かは表示されるので、その日にその人1人にしか会っていない場合、)人物Bは誰が感染したのか知る可能性はある。ここだけは、まだ工夫が足りないところかも知れない。

いずれにしても、これくらいまでに徹底してプライバシー保護の姿勢を打ち出していないと、せっかく大勢の人が労力をかけて「曝露通知」のアプリをつくっても、それが使われず、効果を発揮できない可能性がある。

だから、「曝露通知」では、利用者が全幅の信頼をおいて安心できるほどまでにプライバシーを保護することが、技術の存在意義に直結している。

アップルとグーグルが、プライバシー搾取を防ぐために取った策

さて、アップルとグーグルの両者は、なるべく早くこの技術をiOSとAndroidのOSに搭載しようとしているが、OSの更新は一朝一夕ではできない。そこで段階的な措置として、各国の保険機関と協力しあって1国1アプリの登録制で、この機能を実現するアプリの開発を促しており、こちらは早ければ今月中にも登場する。
 ただ、冒頭の記事でも指摘されていたように保険機関やアプリを開発する企業が、個人情報/プライバシーを盗もうとする心配はないのか?
 これに関しては実はアップル/グーグルの双方が、アプリのガイドラインとして「利用者については最低限の情報しか集めてはいけない」と固く情報収集を禁じており、アプリを「COVID-19対策以外」に利用することも固く禁じている。アプリが利用者の位置情報を取得することも禁じられており、それに違反するアプリは、そもそもアップル(やおそらくグーグルも)アプリの流通を行わないとしている。そして似たようなアプリが乱立し審査が大変にならないことも考慮して、1国1アプリの登録に限定している。
 ここでプライバシーに対しての配慮には納得できても、そもそも効果があるのか?という疑問はあるかも知れない。冒頭で紹介した朝日新聞の記事でもシンガポールの「TraceTogether」やイギリスの事例をあげて、アプリの効果がなかったとしている。
 しかし、これにはちゃんと理由があって、そもそもこれらの技術は、アップルとグーグルの協力体制の前に開発されたアプリであり、まだ十分なプライバシー配慮のガイドラインが導入されていなかったり、iOSとAdnroid間ではちゃんと接触が記録されないといった問題を抱えたままのアプリなのだ。
 新しい技術がなんでも良いというつもりは毛頭ない。
 だが、ただ似たような発想に基づく技術というだけで、まったく別の志でつくられた有望な技術をふいにしてしまうのはあまりにももったいない。
 冒頭であげた記事を読んだ人には、ぜひとも「曝露通知」が別の技術であることを認識してもらえればと筆をとった。
 ついでながら、せっかくの良い連載なので、Asahi Shimbun GLOBEには、記事の続編として「接触者追跡」とは異なる「曝露通知」についてもしっかりと取り上げてもらえればと思う。技術の概要についてはアップル社もグーグル社もかなり詳細に公開している。

参考までに私がITmediaで書いた記事を紹介したい:
https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2005/05/news016.html


投稿者名 Nobuyuki Hayashi 林信行 投稿日時 2020年05月18日 | Permalink