江戸の町から富士は日常の風景だった。市中には「富士見坂」「富士見町」の名が数多く生まれ、東京23区内だけでも富士見坂と名の付く坂は十数か所を数えるとされる要確認。北斎『富嶽三十六景』、広重『名所江戸百景』が描いたように、長屋の路地からも、日本橋からも、富士は暮らしの中にあった。
地図には江戸市中の代表的な富士見の場所を示した。当時は坂の名が示すとおり、これらの地点から実際に富士が望めた。
高度経済成長期、東京の空は煤煙とスモッグに覆われ、富士は都心からほとんど姿を消した。武蔵野市の成蹊学園気象観測所が続けてきた目視観測では、1960年代半ばの富士山観測日数は年間20日余りにまで落ち込んだとされる要確認。
成蹊学園気象観測所(武蔵野市)の目視観測にもとづく概況。1960年代の年間20日余りから、近年は100日を大きく超える水準へ回復要確認。数値の詳細は同観測所の公表資料を参照のこと。
大気は劇的に澄んだ。いま東京から富士が見える日数は、高度成長期の数倍に回復している。しかし今度は、高層建築が地上の視線を奪いはじめた。都心の富士見坂で最後まで富士を望めた荒川区の日暮里富士見坂は、2013年、マンション建設によってその眺望を失った。
一方で2005年、国土交通省は「関東の富士見百景」(128景・233地点要確認)を選定。空気を取り戻した時代の、新しい富士見の地図が編まれつつある。
「可視範囲」の面が示すのは地形だけの世界であり、建築物は含まれていない。現代の都市で富士が見えるか否かは、もはや地形ではなく建築が決める。ビルの谷間にかろうじて残る一筋の視線が失われる一方、超高層の展望階にはかつて存在しなかった富士見が生まれてもいる。視点の主戦場は、地面から空中へ移った。
×印は失われた眺望、青丸は現代の富士見を示す。